勉強ノート 製塩土器
塩は人間にとって必需品ですので、どの時代でも、どこでもいたるところに存在します。
原料の海水も日本全国どこでもあるため、各地で生産されました。
燃料、土、地形、消費地との距離、主に伝承された技術によって各地、各時代で製塩土器の形は異なっています。
日本全国で製塩土器の形態はかなり異なっています。
それらの分布を見ることで文化の流れが見えてくるかもしれません。
製塩土器は考古学の世界では一般的なもののようで、専門の方はかなりの知識を持っているものと思います。
どこまでわかってどこがわかっていないかを整理してみるため まとめてみました。
専門書や論文を見れば更に詳しいことがわかるのでしょうが、ちょっと手軽ではないので、だんだんと調べてゆきましょう。
2005年12月の段階で「製塩土器」のキーワードで検索すると約700件ものHPがヒット。
私の勉強のためにかってに引用させていただきました。
製塩土器とは
文字通り塩を製造するための器です。
製塩は多くの場合 採鹹(さいかん)・煎熬(せんごう)の2つの工程に分けることができます。
製塩土器は煎熬、すなわち塩水を煮詰めるための容器です。
縄文時代に発生。
古墳、奈良時代に全盛期を向かえ、
やがて鎌倉時代に土釜(しっくいで作った釜)や鋳鉄製の鉄釜の発生とともに消滅します。
全体概論
■製塩土器の時代別地域別一覧
究極的にはこの表のような流れがわかる地域別時代別の詳細版を整理し、技術の歴史を勉強しようとするのがこのノートの目的です。
http://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/japan/mosioyaki.html
たばこと塩の博物館 公式HP より
ここは製塩土器のバイブルのような存在です。
●わかったこと
この表を見るといくつかのことがわかります。
・縄文の製塩土器は主に東北で使われ、弥生時代の製塩土器とは全く異なること
・弥生時代は瀬戸内海地方に多く分布している
・古墳時代に爆発的に多くの地域で製塩土器が使われるようになっている。
・古墳時代以降の製塩時の形態は次の4つに分類可能なようだ
1.バケツのような形のもの
2.下が細い細長いコップのようなもの
3.下に角があるおわんのようなもの
4.丸い卵のような形のもの
・弥生時代には製塩土器が発見されない空白期間があること。
縄文時代の製塩土器
縄文時代の製塩土器の発見地は関東から東北地方の太平洋岸に限られているようです。
他の地域でも縄文時代の製塩土器は一部はあるようですが、それほど多くはないようです。
もっとたくさんの場所があるかもしれないのですが、HPで拾えるのはこれだけです。
▲縄文時代の製塩土器発見地
関東地方の縄文製塩土器
関東における製塩土器出土の遺跡分布図(94箇所)
1上津台 2小山台 3法堂 4広畑 5前浦 6道成寺 7立木 8布川 9中妻 10神明 11外塚 12山王道 13友部 14余山 15加曽利 16堀之内
縄文時代関東では製塩が行われたことを示す製塩土器が出土している。
取手でも中妻貝塚や神明遺跡から出土している
http://www.e-t.ed.jp/edotori4312/toride~1.htmより
■茨城県 法堂遺跡
茨城県法堂遺跡では、多量の製塩土器が出土した「特殊遺構」が見つかっています。
「特殊遺構」には厚い灰の堆積があり、製塩址であると考えられます。
遺跡からは9,000点に達する土器片も出土していて、塩の生産が集中的に行われていたと思われます。
法堂遺跡の「特殊遺構」における製塩土器の出土状況
当時、関東一円には製塩土器を多量に出土する製塩遺跡と少しだけ出土する集落遺跡が分布していたので、塩の生産と消費をめぐる人と塩の動きがあったことが分かります。
http://www.meiji.ac.jp/museum/archaeology/kouko.htmlより
■茨城県 広畑貝塚
茨城県稲敷郡桜川村
放射性炭素年代測定法で3000〜4000年前,縄文後期末・晩期前半
http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdfより
古鬼怒湾の湾口部に当たる霞ヶ浦南東岸地域
近藤(1962)により,多量に出土することが知られていた薄手無文粗製土器は縄文時代後・晩期の製塩土器であり,広畑貝塚は縄文時代の製塩遺跡であると報告された。
これは,縄文時代に土器製塩がおこなわれていたことを示す最初の報告であった。
http://members.at.infoseek.co.jp/kaizuka/view_30.html
園生貝塚研究会HP より
▲広畑貝塚出土の製塩土器破片 縄文後期〜晩期
たばこと塩の博物館 公式HP より
■千葉県 園生貝塚
千葉県には縄文時代の製塩土器はほとんど発見されていません。
貝塚が約100ヶ所ある千葉市で、製塩土器が発掘されているのは、わずか1ヶ所です。
京葉道路・穴川インター近くの園生(そんのう)貝塚です。
決して海に近い遺跡ではありません。
製塩工業が発達したのは、茨城県・霞が浦西岸です。製塩業に使用された多量の土器が発見されています。
薄手の土器です。茨城県では、薄手の土器を作る技術が優れていたのでしょうか。良い土がそこにあったのでしょうか。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~KAIGUCCI/movement.htmより
東北地方の縄文製塩土器
東北地方では,福島県いわき市の海岸,宮城県の仙台湾,岩手県の三陸北部の海岸,青森県陸奥湾などで土器製塩が始まったと考えられている
その他の地方へは伝わらず,しかも,あとには続かなかった.
http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdf 大林淳男氏公演録HPより
■宮城県の縄文製塩土器
▲宮城県仙台湾周辺出土の縄文時代の製塩土器
器形やサイズは三陸北部のものと類似するが、底部外面の調整はケズリによるものが多い。
http://www.geocities.jp/mshomei/pareo/26kai-shiryou/seien.htmより
■宮城県 里浜貝塚
▲宮城県里浜貝塚出土製塩土器 高さ33.7cm・30.0cm。およそ2500年前。
http://bunka.nii.ac.jp/SearchDetail.do?heritageId=35618 文化遺産オンラインHPより
▲里浜貝塚は松島湾内最大の島「宮戸島」にあります。
浜辺に位置する西畑北地区では、縄文時代晩期から弥生時代にかけての製塩炉とおびただしい量の製塩土器が発見されています。
里浜ムラの人々は、夏に海水を煮詰めるための塩作り専用の薄い土器を大量に作って塩作りに励みました。
海草を焼き、「藻塩焼き」の方法で塩作りを行った可能性も考えられています。
生産された塩や塩漬けはムラの特産品(=交易品)として山のムラへ運ばれました。
▲製塩設備があったのは写真中央部の西畑北地区。
▲右側写真は製塩土器出土状況
http://www.city.higashimatsushima.miyagi.jp/02_jomon/satohama/satohama.pdf
■宮城県 二月田貝塚
▲宮城県二月田貝塚(にがでかいづか)
塩事業センターHPより
▲二月田貝塚は松島湾に面した塩釜市にあります。
http://www.shichigahama.com/benricho/joho/documents/d87-050.pdf
七ヶ浜町統計書より
■三陸北部の縄文製塩土器
岩手県北部と青森県南東部にまたがる地域に縄文製塩土器が出土します。
▲三陸北部の縄文時代の製塩土器
出土遺跡
岩手県久慈市大芦I遺跡 捨て場包含層 大洞BC〜C1式破片223点、完形品2点
岩手県種市町ポックリ貝塚、 表採 時期不明 点数不明
岩手県種市町ゴッソー遺跡 表土〜包含層 時期不明 点数不明
岩手県種市町タケノコ遺跡 表採 大洞BC式? 約150点
岩手県種市町千敷平遺跡 表採 時期不明 1点
青森県階上町滝端遺跡 土坑出土 大洞BC式 完形品1点
青森県八戸市八幡遺跡 捨て場包含層 大洞B〜BC式 点数不明
青森県八戸市風張
青森県八戸市松館貝塚
特徴
1.大洞BC〜C1式に伴う。
2.口径、器高ともに20cm前後の深鉢形である。
3.口縁部は指ツマミによる不整な波状をなす。
4.底部は底面の凹む小平底が多く、尖底や丸底、底径2〜4cm程の平底のものもある。
外面調整はナデである。
5.採鹹(さいかん)は行わず、海水を直接煮込む直煮製塩であった
http://www.geocities.jp/mshomei/pareo/26kai-shiryou/seien.htm
岩手考古学会君島武史氏論文 のHPより
▲岩手県種市町ホックリ遺跡
塩事業センターHPより
■青森県の縄文製塩土器
陸奥湾周辺の製塩土器は口径・器高ともに30cm前後と大形で、波状口縁と10cm前後の平底。
形態的に三陸北部のものとは大きく異なっている。
岩手考古学会君島武史氏論文 のHPより
http://www.komakino.jp/ao-seien-pdf/ao-seien-pdf.html
断章 青森の製塩跡考より
青森県での製塩土器は縄文時代では岩手県との県境の海岸地方と陸奥湾の奥に分布している。
平安時代では陸奥湾など広範囲に分布しています。
■青森県 大浦遺跡
▲青森県大浦遺跡
塩事業センターHPより
大浦遺跡は青森市の中心から国道4 号線を北東約6km、国鉄東北本線野内駅からは北東1.5km、青森湾に面して鼻繰崎がありその西側に位置する。
現汀線より150m 海抜1.5m の平担な畑地
大浦遺跡からは縄文時代の製塩だけではなく、平安時代の製塩土器と、近世の製塩設備も発掘されています。
■広島県
縄文時代の製塩土器は東北地方に多く分布していますが、西日本からも縄文時代の製塩土器は一部発見されているようです。
▲安芸郡蒲刈町(かまがり)
沖浦遺跡は、縄文時代から中世までの遺構が重層的に残っています。
http://www.e-gourmet.jp/issue2_bk/0404.phpより
縄文製塩土器のまとめ
●わかったこと
・縄文時代の製塩土器は東北太平洋岸に分布している。
・茨城県のものが古く(縄文後期)、しだいに宮城、岩手、青森へ海沿いに広がったようであること。
・形状は逆円錐の深鉢形。
・弥生時代の製塩土器と様式的に大きく異なってる。
・弥生時代へ技術が伝播することはなかったとされている。
●新たな疑問
・日本全国にある縄文遺跡の縄文人は「塩」をどうしていた?
特に山に住んでいた縄文人は?
・縄文人でも交易は盛んだったということですが、交易の対象にならなかったのはなぜ?
・縄文時代に一部の地域とはいえ獲得された製塩技術が弥生時代に伝わらなかったのはなぜ?
技術の絶滅?
古墳時代以降の製塩土器
本格的な土器製塩が始まるのは,2300年前の弥生時代です。
西日本の瀬戸内海の児島付近が発祥と考えられます。
朝鮮半島から現在の岡山県中部に伝わったと考えられます。
弥生時代後半期には大阪湾や周防灘に技術は拡散し、
1700年前頃以降には,広島,山口,福岡,熊本,福井,石川,三重,愛知へと拡大したのである。
この結果,各地に地域性の強い特有な形の製塩土器が誕生しました。
その一方で、縄文時代には塩の一大産地だった東北では弥生時代には製塩土器がほとんど見られなくなってしまいます。
松島湾で弥生時代中期の遺跡から製塩土器に似た土器は発見されていますが、
他の地域では発見されていません。
現段階では縄文時代の製塩土器は松島湾において弥生時代中期で廃絶したと考えられています。
■製塩土器による生産地域
製塩土器は日本各地で発掘されますが、かなり偏在しており、その形態も大きく異なっています。
▲奈良時代を中心とした各地の塩生産地
赤丸は古代製塩遺跡
青ベルトは古代製塩遺跡の集中地域
■税としての塩
塩の生産、技術の流れに大きく影響を及ぼしたものに奈良時代の「調塩」と呼ばれる 税としての塩の納入があります。
調塩(ちょうえん)
古代の税であった租庸調のうち、各地の特産物を税として納めることが調。
製塩国からは大量の塩を納めることを中央から求められました。
若狭でも調として塩が多く収められました。
これまで奈良で発掘された若狭の木簡では、調塩の荷札が最も多くなっています。
▲平城京に税としてもたらされた塩の産地
平城京出土木簡に見る塩貢納国の比率
平常宮出土の塩の木簡は若狭国からのものが圧倒的多数を占めており、若狭国は平常宮への調塩の貢納では主要な地位を占めていたことがわかります。
また西海道諸国からの木簡が見られないのは、大宰府管下の国々の調塩が大宰府へ納められていたためと判断されます。
各地の製塩土器
■鹿児島県
海水を直接煮詰めて塩を作ったといわれる製塩土器が、発見された遺跡が県内に2箇所ある。
薩摩半島の西海岸吹上町辻堂原遺跡と鹿児島湾内姶良町萩原遺跡である。
辻堂原遺跡は弥生時代の末期から古墳時代中期の集落遺跡で、竪穴住居の周りのU字状の溝状遺構から製塩土器の薄い器壁の坏部と棒状台脚が発見されている。
萩原遺跡では古墳時代の土器群の中から発見され、辻堂原遺跡の土器と同じ器形と推定されている。
http://www12.synapse.ne.jp/aira-museum/yayoi.htm
姶良町歴史民俗資料館HP より
■熊本県
塩事業センターHPより
▲沖の原遺跡出土の製塩土器破片 古墳時代後期
沖ノ原貝塚は、熊本県五和町の通詞島(つうじじま)の対岸にある。
南北190m、東西40〜80mという大遺跡。
昭和34年沖ノ原から島に送る水道の工事現場で発見された。
貝塚の調査は、これまで4回本格的な発掘が行われたが、その結果、出土品は約60,000点
その出土品から狩猟、漁労の道具・塩をつくる器・農耕に使う道具・工夫をこらした生活用具・おしゃれの品々など当時の生活が極めて活動的で経済力に富み、生活の豊かさが推測される。
沖ノ原遺跡が特に注目されることは、
(1)遠く縄文時代から現代まで長期にわたる遺物が出土している。
(2)中でも縄文前期の曽畑式・轟式土器の出土によって7,000年前に、天草に人々が住んでいたことが実証された。
(3)出土品の中で、縄文中期につくられたとされる阿高式土器(4,000〜5,000年前)の出土は、その量において日本一といわれる。
(4)塩をつくる土器が九州では最初に発見された。
(5)縄文時代から弥生時代にわたる30数体の完全人骨が出土した。
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Sumire/4808/rekisimokuzi.htmより
★天草式製塩土器
▲天草式製塩土器による製塩実験
形としてはこのような底の浅い器の下に長い脚がついています。
天草式製塩土器は長脚・台付を特徴とする
いまから1500〜1600年前の古墳時代。
直煮法による製塩が大規模に行われ、九州一円にまで供給していたと考えられている。
天草一帯は九州の塩の産地として知られていた。
五和町歴史民俗資料館に展示があります。
http://www.nishitetsu.co.jp/nnr/inf/news/backnumber/n0108/special_main.htmより
■沖の原遺跡
▲沖の原遺跡
http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/his/sugii/contents/research/200405Oyano-Bunpu/200504oyano-bunpu.htmlより
http://www.atkyushu.com/AreaApp?LISTID=201&VIC=1000000289より
■福岡県
★玄界灘式製塩土器
▲筑前国の製塩土器 玄界灘式製塩土器 中道遺跡出土 8世紀
福岡県朝倉郡朝倉町所在中道
球形の製塩土器以外にも、紀伊のような細長い丸底のものも用いられている。
土錘(どすい:魚網のおもり)も出土しており、漁労集団による塩生産も想定されます。
昭和54年から56年(1979-1981)に実施された福岡県海の中道遺跡の調査では、8〜9世紀に使用された甕形(かめがた)煎熬土器と焼塩壺と考えられる土器の存在が明らかになっている。
http://www.hikoshima.com/photo-mutsurejima/muture02.htmより
円錐形の土器は太宰府市通古賀で出土した焼塩用の土器
大きな土器は製塩用土器(復元品)で8世紀〜奈良時代に出現し、9世紀半ば〜平安時代初めごろには姿を消します。
http://www.city.dazaifu.fukuoka.jp/mpsdata/web/1126/018.pdf
Web広報だざいふ より
■山口県
★美濃ヶ浜式製塩土器
▲古墳〜奈良時代の復元品 波雁ケ浜遺跡
「美濃が浜式土器」と呼ばれ、短い棒状の脚部の上に碗形の容器がつくワイングラスのような形をしています。
製塩の方法は、土器の中に濃い海水を入れ砂に突き立て、煮沸して結晶塩を取り出していました。
時代の経過とともに脚部が短く太いものから細長いものへと変化していきました。
なお、同時に、滑石製馬形模造品、土製勾玉、スプーン形土製品やミニチュア土器などの祭祀遺物が出土し、製塩する時に祀りが行われたことがわかります。
http://www.city.ube.yamaguchi.jp/bunka/5/kobetu_42.html
宇部市HP より
山口市美濃ヶ浜遺跡出土製塩土器破片
薄い鉢形の身部に柱状の脚台が付く器形が特徴で、「美濃ヶ浜式」と呼ばれています。
本遺跡出土の製塩土器は古墳時代に属します。
山口湾岸〜山陽小野田市本山半島までの分布が知られています。
http://db.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/db/kouko/syuzou_ko_04_01.html
山口県立山口博物館 より
美濃ケ浜の製塩土器と兜山古墳
製塩土器は盃状で底部がとがっていて、これを砂の中にたて、下から熱して製塩したものといわれる。
長浜の東海岸から美濃ヶ浜にかけては旧石器時代・縄文時代・古墳時代に亘る製塩遺跡として注目された所で、昭和35年に山口大学・広島大学・岡山大学・鳥取大学の合同学術調査が行われ、炉跡を中心に製塩遺構があったことが発見された所である。
またこの近くの兜山南麓傾斜地に集落住居跡遺跡もあり、また近くに古墳数基があった。
製塩漁労集落のあったことがわかる。
美濃ヶ浜は夏は海水浴客で賑わう景勝の地である。
http://www.aiocho.jp/reijyo/frameright.htm
山口市HP より
■山口市美濃ヶ浜遺跡
美濃ヶ浜遺跡は周防灘に面する秋穂二島の臨海型集落です。
http://www.ysn21.jp/furusato/know/03history/history01.htmlより
★六連島式土器(むつれしきどき)
古墳時代の後期から律令時代にかけて
丸底の円筒形で、内壁に布目のある製塩層をなし、日用と見られる粗製土器
http://www2.tip.ne.jp/~kondou00/hikorekisi.htmより
昭和33年(1958)六連島で発見され、これは、型作りのため内面に布目の残った丸底円筒形の土器で、「六連式土器」と命名されている。
この土器の器形の特徴及び二次的加熱痕や器壁の剥離が見られることから固形塩を作るための焼塩壺であり、また、内陸部の寺院や官衛などの公的機関の性格が強い遺跡からも出土することから、塩の献納と関係した運搬用器であると考えられている。
土器の大きさは、口径11センチ、高さ29.3センチ、器壁の厚さ約1センチの円筒形である。
六連式土器の発見される遺跡は山口県内では生産遺跡である六連島遺跡、筏石遺跡、吉母浜遺跡安岡駅構内遺跡ばどのほか、消費遺跡と考えられる周防国府跡、長登銅山跡など15箇所が知られているが、遠く平城京跡や布留遺跡など畿内各地の遺跡でも発見されている。
http://www.hikoshima.com/photo-mutsurejima/muture02.htmより
六連島
面積:0.69平方キロメートル/人口:159人
下関市彦島の北西約5kmの響灘に浮かぶ溶岩台地の島です。
■音治郎遺跡
島の南西部(字音次郎)にある縄文、弥生、古墳時代にまたがる遺跡です。昭和30年に発見されました。
発掘された遺物には、土器類や石器、骨格器などがあります。
土器のうち製塩用の丸底円筒形のものは、最初に発掘されたこの島の名にちなんで、「六連式土器」と名付けられています。
http://www.pref.yamaguchi.jp/gyosei/chiiki/island/3muture.htmより
高槻式土器(○印)と六連式土器(●印)の分布[「関門を結ぶ古代の土器」
第9回日本海峡フォーラム実行委員会作成『海峡の考占学』所収]
弥生時代前期後半(前二世紀)の高槻式土器と奈良時代(八世紀)の六連式土器(焼塩壼)の分布を示したものである。
前者の分布は紫川流域(現=北九州市小倉区)からまず綾羅木川流域に伝わり、あるいは小瀬戸をへて木屋川下流(現=下関市吉田)へ伝播したことを推測させる。
綾羅木川の河口は、航海者にとっては小瀬戸の潮待港でもあった。
後者は当時の塩の道が大瀬戸を迂回するのではなく陸路周防灘側へ搬送されたことを示す。
http://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00240/contents/052.htmより
■筏石遺跡
筏石遺跡は、響灘に浮かぶ蓋井島(ふたおいじま)にある古代の集落跡で、昭和42年(1985)の小野忠熈氏らによる調査で六連式土器が発見されており、土器の大きさは口径11センチ、高さ29.3センチ、器壁の厚さ約1センチの丸底円筒形で黄橙色をしている。
(下関市史民続編)
■香川県
瀬戸内の海浜,島しょに弥生時代中期から奈良・平安時代にかけて営なまれた土器製塩遺跡は200か所以上ある。
備讃瀬戸地域は最も分布密度の高い地域であるとともに,その発生地域でもある。
古墳時代には山口市沿岸,芸予諸島,備讃瀬戸,小豆島,淡路島,大阪湾沿岸,鳴戸,和歌山の各地方,さらに九州,若狭湾,東海沿岸にまでその分布域が拡大された。
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_0005-06.html
「製塩」『日本の考古学』 V1966 より
■喜兵衛島(きへいじま)遺跡
▲古墳時代前期 古墳時代後期 たばこと塩の博物館HPより
香川県直島町の喜兵衛島遺跡は土器製塩の事実が立証された代表的な製塩遺跡。
広い海浜に面する平坦地のほぼ中央部に製塩炉,その周囲に堅くしまった作業面,その外周に使用済みの製塩土器,灰,炭などの捨て場で構成されている。
また,瀬戸大橋架橋の櫃石島の大浦浜遺跡では数個の塩水溜と製塩炉が発見されている。
香川県の製塩土器の形態変化
弥生時代中期から古墳時代前期にかけてワイングラス状の脚台のついた器壁の薄い鉢形。
古墳時代の前期末から後期初頭には脚台を取り丸底化したコップ状。
後期には丸底大型化した鉢形。
7、8世紀には再び小型化された尖底の鉢形。
平安期には器壁が厚い鉢形となり やがて消滅する。
http://www.library.pref.kagawa.jp/kgwlib_doc/local/local_0005-06.html
「製塩」『日本の考古学』 V1966 より
■沙弥ナカンダ浜遺跡
沙弥島(しゃみじま) 沙弥ナカンダ浜遺跡は、県下でもまれな縄文遺跡で、縄文土器が出土する遺跡として研究者の注目を集めています。
数回にわたる発掘調査が行われ、従来の縄文遺物のほかに、弥生時代から古墳時代にかけての製塩遺跡の存在が確認され、製塩生産に関係する敷石炉や焼き塩炉、更に弥生時代前期の遺物なども検出されました。
現在、製塩遺跡に代表される海浜遺跡の多くが消滅していくなかで、沙弥ナカンダ浜遺跡は縄文時代から弥生時代を経て古墳時代にいたる遺構が良好に保たれていることなどから、県指定史跡に指定されています。
沙弥ナカンダ浜の地名の由来については、『中の田(畑)』がなまってナカンダとなった説と、北の浦をキタンダ、西の浦をニシンダという方言から『中の浦』をナカンダといったとする説の2つがあります。
http://www.city.sakaide.kagawa.jp/local/manyou.htmlより
■広島県
製塩土器は、脚の付いた広口の鉢形のものやほっそりとした胴長のもの、胴部が膨れたグラス形のものなどさまざまですが、大きな特徴としては、時代が新しくなるにつれて下部の脚が消え、底部が丸くなっていったようです。
▲尾道市・大田貝塚 高さ14cm 府中町・下岡田遺跡 蒲刈町・沖浦遺跡
(広島大学文学部考古学研究室蔵)
http://hmaibun.d-net.co.jp/mukashi/10_p01.htm
広島県教育事業団埋蔵文化財調査室HP より
▲広島県における製塩土器出土遺跡分布図
▲古墳時代中頃 東広島市・助平3号遺跡 庄原市・和田原D地点遺跡
広島県では,海岸部の遺跡として,現在は約50箇所見つかっています。
瀬戸内で最古の製塩土器は,現在では,弥生時代中期後半(紀元前1世紀末頃)に岡山県児島地域(かっては島)で見つかっています。
芸予諸島地域では,弥生時代中期末頃に出現しています。
愛媛県に製塩技術が伝わるルートは,岡山県の児島を含む岡山県南部から広島県の東南部を経て「しまなみ海道」を通ったと考えられます。
芸予諸島とその周辺沿岸部地域では,製塩遺跡は,弥生時代の数は少ないのですが,古墳時代前半(4世紀頃)になると,たくさん出現します。
この地域で塩作りが最も盛んになるのは,古墳時代後半(6世紀後半)の時期です。
従来とは比較にならない程の最大規模の生産が行われました。
塩は地元やその近辺のみで使われたのではなく,当時のヤマト王権の大きな関与があり,大部分は近畿地方に運ばれたと考えられます。
この時期は,和歌山県や大阪府沿岸部などの近畿地方周辺部では,土器製塩が衰えており,それまで頼っていた福井県・兵庫県の生産量でも足らず,瀬戸内中部地域に頼ったのでしょう。
http://hmaibun.d-net.co.jp/iseki/13/P03.htm
広島県教育事業団埋蔵文化財調査室HP より
▲大浜遺跡出土(古墳時代中期;高さ8cm)
http://home.hiroshima-u.ac.jp/kouko/museum/remainlist/hajiki_kohun.html
広島大学考古学研究室より
▲沖浦遺跡から出土した土器。
http://www.pref.hiroshima.jp/sukoburu/vo19/machi.html
■沖浦遺跡
http://hmaibun.d-net.co.jp/mukashi/10_p01.htmより
安芸郡蒲刈町
http://www.chugoku-np.co.jp/Graph/angle/030701/030701.html
■高知県
県内から出土した製塩土器は,円筒形のU類土器であり,遺跡の時期もU類土器が流通する
時期内に相当する。
県内出土のものは,下の坪遺跡が口径8.0〜15.0cm,小籠遺跡が口径8.0〜9.5cm,具同中山遺跡群W区出土の製塩土器が口径10.1〜13.1cm。
今回出土したものは前述のとおり2種類に分かれる。
製作技法も法量を一定にするため,型に粘土を貼り付けて成形し,口縁端部の余分な粘土をヘラまたは指で切り落としたものとみられる。
http://pc2.sites-tosa-unet.ocn.ne.jp/pdf_sites/publication/contents/pdf_data/report/report_2002_069-080/report_070/report_070-2.pdf
高知県埋蔵文化財センター発掘調査報告書第70集
■島根県
▲出雲の製塩土器 古墳時代後期(7世紀) 島根県美保関町伊屋谷遺跡
塩作りの土器の脚部で、先端のとがった形状は能登出土の製塩土器に類似しています。
■岡山県
★師楽式製塩土器
師楽式(しらく)土器は瀬戸内地方のもっとも知られた製塩土器のひとつである。
主に瀬戸内海の沿岸部を中心に分布する土器。
鉢形の薄手粗製土器で、弥生時代から平安時代にかけての製塩用の海水を煮つめる用具。
岡山県南東部、牛窓町師楽にちなむ命名。
この地域からは時代が異なる台付鉢形の土器と、台座が分離するタイプの2つの製塩土器が出土します。
師楽式製塩土器がどちらのタイプなのかまだ私にはわかりません。
HPからは読み取れません。
■台座が分離した製塩土器
昭和3年、岡山県牛窓町師楽地区で、ある興味深い出来事があった。
今まで日本では出土されたことのない土器の破片が見つかったのである。
それは弥生式土器とは確実に異なり、非常に薄手のもので、大きさは今の湯呑程度。
そしてどの破片にも、異なった網目や波形の押し模様があった。
さらに土器を乗せる台のようなものも一緒に発見された。
土器が使用された推定年は4世紀から6世紀。
土器に残留する成分を科学的に検証した結果、海水の蒸発に用いられたものと判明。
つまり、海水を汲み入れた土器の周辺で火を焚き、水分を蒸発させ、塩を作っていたのである。
http://www.harenet.ne.jp/kinkai/saltworks.htm より
■師楽遺跡
古代土器製塩の遺跡。
邑久郡牛窓町師楽に所在。
牛窓湾の北側、東より湾入した錦海湾の南側にある。
昭和4年水原岩太郎が発掘調査を行った。
出土した大量の土器は叩き目を有する独特な特徴から,遺跡名をとって師楽式土器と命名され,本遺跡は備讃瀬戸における製塩土器の型式名称のもととなった。
また、この大量土器は,灰・炭を共伴したことから,当初は特殊な窯跡と考えられたが,現在では土器を使用して製塩煎熬を行った遺跡と考えられるようになった。
遺跡は現在、住宅や畑の下になっているが,良好な包含層と土器層が残っている。
周辺の錦海湾沿岸にも同様な製塩遺跡が分布している。
(角川日本地名大辞典)
岡山県南部の海岸及び香川県を含めた島しょ部に多く出土し師楽式土器と呼ばれます。
弥生時代中期後半から認められ、それ以降奈良時代におよぶ。
三角形状の鉢形土器の底部に低い台が付いている。
弥生時代後期後半まで器面を整えるのは指によるナデとへラの粗い削りで行われる。
それ以降はヘラ削りに代わりタタキが用いられるようになる。
台の部分がしだいに小さくなり古墳時代前期には失われる。
出現期が口径30cmであったものが口径6〜8cm、器高10cm前後の小形になってしまう。
しかし、六世紀中葉前後には先祖返りの如く、大形のものが出現する。
阿津走出遺跡が代表的。
■阿津走出遺跡
瀬戸大橋の建設に伴い調査
長さ160m、幅26mの砂州上に営まれる。この規模は、自然条件により形成されたのではなく土器製塩という生産活動の結果が大きく影響した。
▲岡山県古墳時代後期の製塩土器
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/sagu12.htm
岡山県古代吉備文化財センターHP より
■台付鉢形土器
▲百間川(ひゃっけんがわ)遺跡群から出土する台付鉢形土器
百間川遺跡群からはたくさんの製塩土器が出土している。
また、原尾島(はらおじま)遺跡からは製塩炉が発見された(この時期の炉としては全国で2例目)ことからかなり大々的に塩を作っていたのではないかと想像されている。
http://kouminkan.city.okayama.okayama.jp/tomiyama/index.html
岡山市立富山公民館HP より
▲百田遺跡出土 弥生時代後期(複製)
■兵庫県
淡路島は製塩土器の集中地帯です。
淡路島でも、弥生時代から、塩づくりが行われたことが分かっています。
古墳時代後期に最盛期をむかえています。
和歌山県や大阪府側での塩づくりが衰退する時期です。
▲淡路島での製塩作業の様子イラスト
http://www5.ocn.ne.jp/~kokoken/index.html
考古幻想HP より
■貴船神社遺跡
淡路島北淡町
弥生時代の終わり頃から奈良時代までの製塩土器が出土。
発掘調査は、平成7年7月から12月まで行いました。
炉は、確実なもので22基見つかっており、壊されたものや不定形なもの、小規模な集石も数えると当時使っていた炉の数はもっと多いと考えられます。
炉跡は石敷炉と呼ばれるものが大半ですが、石囲炉や石を2列並べた炉もありました。
石敷炉(いしじきろ)の多くは径60pから120pの規模で、形は円形や楕円形、さらには隅丸長方形といろいろです。
すべて石をぎっしり敷き並べていました。
炉に使われている石材にはチャート、花崗岩,砂岩などがあります。
花崗岩や砂岩は焼けると割れやすいので元の形を残していないものも多く見うけられます。
http://www.hyogo-c.ed.jp/~maibun-bo/iseki20.htmより
http://inoues.net/club/awajisima1.htmlより
■余部浜遺跡
日本海側の遺跡です。
ここでは畳1枚程の炉で海水を入れた土器を50個程並べ直接下から火を焚きました。
容器一杯の塩を取るためには30回以上も海水を注ぎたしながら、3日から4日煮詰めたといわれ祖先の苦労が偲ばれるというものです。
塩を取るためにはこの土器製塩が最も古く、弥生時代中期に瀬戸内を中心に始まり、古墳時代前期に各地に広まったとされています。
若狭、紀伊半島でも遺跡が発見されており、日本海側では若狭が西限とされていましたが、ここ香住町での発見さらに島根県での発見によりその西限が山陰にと移りました。
http://www.asahi-net.or.jp/~ug3h-itkr/bridge/guide.htmより
■福井県
弥生時代ごろに備讃瀬戸から大阪湾を経て技術が伝わり製塩が始まりました。
やがて奈良時代に国家の税の要請を受けて急激に発達し、華開きます。
巨大な製塩土器が作られ、遺跡の数でも郡を抜いています。
若狭は越前の2倍以上の製塩遺跡があり、塩の生産が越前に比べて盛んであったことがわかります。
そして、近世に至り瀬戸内製塩の販路拡大につれて食塩の製造は競争に破れ、廃絶の途をたどることになりました。
若狭では11世紀ごろまでおこなわれていたようです。
▲若狭湾沿岸の製塩土器の出土分布
7世紀末から9世紀前半ごろの船岡式・傾式の製塩土器の分布。
若狭湾沿岸には70か所以上の製塩遺跡が分布しています。
岡津式は船岡式にふくめたが、浜禰UB式など船岡式より古いとみられているものはふくめていない。
越前は、船岡式・傾式段階と考えられる平底型と、傾式の製塩土器を取り上げた。
『日本土器製塩研究』より作成。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A09/A091.htm
福井県文書館HPより
▲若狭地方の土器製塩遺跡分布
製塩遺跡の分布状態からみて、高浜・大飯両町付近と小浜市田烏付近が中心であったらしい。
岡津製塩遺跡(小浜市)は代表的なもので、発掘整備されており、大規模な製塩炉跡や広大な焼土面、多数の製塩土器片が出土して国指定の製塩史跡として知られます。
中世においても御賀尾(三方町神子)・多烏(小浜市田烏)・汲部(小浜市釣姫)をはじめ諸浦に製塩がみられ、また敦賀湾の東浦(敦賀市)の集落などにも中世以来の塩業史料が発掘されます。
▲若狭地方の製塩土器編年
■若狭湾の弥生時代
▲武生の弥生時代の製塩土器
一部では弥生時代の土器も発掘されているようです。
丹生郷遺跡(にゅうのごう)
備讃瀬戸で弥生時代中期に成立した台脚をともなう製塩土器が大阪湾沿岸を経て若狭にもたらされ、次に備讃瀬戸や大阪湾沿岸で薄い器壁の小型丸底土器が使用されはじめると、それが若狭にも波及したとみられる。
一方、このころほかの地域では相変わらず台脚をともなう製塩土器が使用されている。
この段階から、若狭の塩は、ヤマト政権の塩生産の一翼を担ったものと考えられる。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-03-01-02.htm
■若狭湾の古墳時代前期〜中期
浜禰I式
製塩炉は粘土敷炉です。
▲浜禰遺跡
4世紀末ごろから大島の浜禰(はまね)で塩作りがはじめられました。
古の製塩土器である浜禰T式の年代は、四世紀末から五世紀前半に位置づけられている。
当初、塩はグラス状やコップのような小さな製塩土器でつくられていました。
浜禰T式のものは若狭中央部の浜禰遺跡(大飯町)、阿納塩浜遺跡・堅海定元遺跡(小浜市)の三か所のみで検出されています。
時期は四世紀末〜五世紀前半で、倒坏形の脚部を有するブランデーグラス状の形態を有し、容量は100〜300tで小型の器種が多い。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-03-01-02.htm
■若狭湾の古墳時代中期〜後期
浜禰IIA式
石敷炉の出現
最初は瀬戸内沿岸や大阪湾岸の影響を受けて展開します
浜禰UA式のものは若狭で17か所、越前の新保A遺跡(三国町)で一か所検出されています。
出土している遺跡が前の時期の遺跡とくらべ、増加していることから製塩が盛んになってきたことをうかがわせます。
時期は五世紀後半〜六世紀前半で、薄手のコップ型で丸底を呈し、容量は320〜350tで規格化されています。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-03-01-02.htm
▲鶴賀の古墳時代の製塩土器
日本初期に敦賀産の塩だけが天皇家の食事に用いられたという記事がのっています。
■若狭湾の古墳時代後期
浜禰IIB式 大きなもので高さ20cm
石敷炉の大型化
大飯町宮留遺跡
浜禰UB式のものは若狭で29か所、越前で10数か所検出されています。
一層の増加がみられ、塩生産の増産がはかられたことがわかります。
古式は6世紀後半で、口径10センチメートル前後で、船岡式に近い器形をしていますが 底部がまだ丸く成型してあり鍋底のような丸底を呈すると推測されている。
新式は7世紀で、製塩土器はさらに大型化し、容量が2000tに達する深鉢状の器形を呈する。
製塩炉は長さ3m×幅2mと明確なプランはありますが、完全な石敷炉ではありません。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-03-01-02.htm
■岡津(おこづ)製塩遺跡
4世紀後半(古墳時代前期)から始まった若狭の土器製塩は7世紀の後半に変革期を迎えますがそれまでは増加していた製塩土器が一挙に巨大化しそれと対応する製塩炉も整然とした石敷炉となります。
岡津製塩遺跡の存在した時代はその変革期に当たります。
変革期の真中に位置づけられる浜禰IIB式(岡津式を含む)
そしてそれの完成に位置づけられる船岡式の製塩土器と製塩炉がここで確認されました。
この遺跡で確認された資料は製塩土器と製塩炉と焼土面があります。
焼土面は300uでその表面が全体的に加熱されて変色しています。
岡津では二組の製塩土器と製塩炉が用いられています。
■若狭湾の奈良時代
船岡式製塩土器 8世紀
全国的には7世紀頃から土器製塩は次第に衰退したが若狭に於ては8世紀に成行の時期を迎えます。
船岡式製塩土器 奈良時代 立石遺跡出土
若狭57箇所(高浜町より美浜町の間)の製塩遺跡のうち46箇所から出土します。
船岡式の土器の作り方は浜禰IIB式(岡津式)と同じ粘土紐ですが器形は大きく異なります。
土器の底は平底になり、容量もバケツ大にまで巨大化し、直径は45cmにもなります。
その前段階の七世紀代に属する浜禰UB式(新)製塩土器が2L前後の容量であったのに対し、10Lに及ぶものも現われます。
大量生産に適したサイズです
炉は長さ5m×幅3mの規模で、明確なプランを持った規格的な大型石敷炉となっています。それが複数化しています。
奈良時代には律令制おもとに若狭の塩は、税として都へ送られました。
平安京跡出土木簡にある「調塩三斗」(24リットル)に対応するためには、製塩炉の変革とともにより大容量の製塩土器が必要となりました。
若狭における製塩が自生的に発達したものではなく、律令国家の要請にこたえるために、権力的に上からもたらされたものでしょう。
藤原宮跡出土木簡でも若狭の調はすべて塩であり、すでにこの段階から若狭は調塩の国と位置づけられていたことがわかる。
それに対応するのが岡津式製塩土器である。それは七世紀末に比定され、小浜市岡津遺跡で見つかったものである。
そしてそれは浜禰UB式(新)よりも大きく、船岡式土器に先行するもので、時期的に律令制確立期に対応するものといえる。
浄御原令段階からすでに、国家的主導により塩の生産が行われていたが、大宝令段階でそれが一段と進み、それに対応した生産方式として、大型の船岡式土器が出現し、規格的な敷石炉でそれを用いた生産が行われたのである。
四方を山に囲まれた小浜市大谷の八幡前遺跡で船岡式製塩土器が見つかっているが、そこから三キロメートルほど北へ向かえば、志積・阿納・田烏などの製塩遺跡が点在する海岸部に出る。
しかも阿納塩浜遺跡からは、八幡前遺跡出土のものとまったく同じ製塩土器が見つかっていることは、内陸部から沿海部へと製塩土器を供給したことを物語るものである(『わかさ宮川の歴史』)。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/4-01-02-02-05.htm
製塩には多量の燃料や土器を必要とし、土器は女性が作る場合が多いので、調の名目的負担者である男性のみでなく、国中の女性もふくめた大規模な労働編成が国司や郡司によって行われたのでしょう。
律令体制成立以前においても、若狭に置かれた屯倉は、塩の確保を目的にしていたようです。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/zusetsu/A09/A091.htm
福井県文書館HPより
■船岡遺跡
船岡遺跡では周囲に大きな石を配し、内側に栗石が敷き詰められています。
雨水などの流入を防ぐための溝が東西側に掘られています。
■若狭湾の平安時代
傾式
吉見浜式
塩浜式
10世紀になると支脚がついた吉見浜式の土器が考案され、製塩を大きく進歩させました。
傾式 ・ 吉見浜式(長脚化) ・ 塩浜式
石敷炉の粗雑化
▲吉見浜遺跡
http://city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d34120e16093ce/7d34120e16093ce13.htm
舞鶴市HP
越前の製塩土器も、若狭のそれと同じ変化を示すようであるが、遺跡数も現在のところ少なく、明確に位置づけることができない。
http://www.archives.pref.fukui.jp/fukui/07/kenshi/T1/2・3-01-03-01-02.htm
■浦入遺跡(舞鶴市千歳浦入)
塩づくりを支配した笠氏「笠百私印(かさひゃくしいん)」刻印土器 平安時代前期(850年頃)
舞鶴湾口に近い浦入遺跡から出土したものです。
塩づくりに使う素焼きのうつわを支える脚の横と 裏に印が押されており、塩づくりに「笠」という豪族がかかわっていたことを証明しています。
■大阪
▲大阪は難波宮があり 各地の製塩土器が塩といっしょに輸送され、消費されたため 様々なタイプの製塩土器が出土します
http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/koukogaku/koukogaku050324.html
大阪日日新聞 HP
大阪の最南端、淡路島をのぞむ小島北磯遺跡(泉南郡岬町多奈川小島)は関西空港2期工事に関連して新たに発見された製塩遺跡である。
岩礁に挟まれた小さな浜に弥生時代中葉から奈良時代に至る製塩の跡が現われた。
奈良期の石敷製塩炉18基、弥生中期〜古墳中期の石のない炉12基を確認、製塩土器は丸底のもの、脚台をもつものなど3千点を越え、大阪湾岸で最古期の製塩土器も含む。
生活に不可欠の塩生産の変遷を示す極めて重要な遺跡である。
http://www.occh.or.jp/bunkazainochosa/hakkutsuchosashi/nanbushita.html
■和歌山県
▲田辺市出土の製塩土器
http://www.city.tanabe.lg.jp/bunshin/shiryoukan/tenji.htm
田辺市HP
和歌山県には、100遺跡以上の製塩と漁撈をなりわいとした集落が存在します。
▲製塩遺跡の分布
http://www.kiifudoki.wakayama-c.ed.jp/zyosetuten-kofun.htm
紀伊風土記の丘HP
▲製塩土器(和歌山市西庄遺跡)
▲紀伊国の製塩土器 8世紀 白浜町瀬戸遺跡出土
紀伊から大阪湾沿岸の地域では、主に細長い丸底の製塩土器を用いた。
北部九州と同様の球形の土器を用いる場合もある。
奈良時代の石敷製塩炉
和歌山県白浜町の理学部附属瀬戸臨海実験所構内の瀬戸遺跡。
縄文時代晩期〜弥生時代前期の土器や人骨が出土。
南紀における弥生時代の始まりを考える上で重要な遺跡である。
濃縮した海水から塩を得るための奈良時代の石敷炉や専用の土器類が出土
南紀を代表する製塩遺跡となっている。
http://www.kyoto-u.ac.jp/maibun/siryou_index.htm
京都大学HPより
■奈良県
▲藤原京出土の製塩土器
▲飛鳥遺跡出土の製塩土器
■石川県
石川県内では27箇所の製塩遺跡から支脚が出土している
主に内浦地方では底が尖った細長いタイプが使われ、
外浦地方地方では平底の若狭と類似の大きな製塩土器が伝わり、
やがて、小型の平底タイプのものが支脚と組み合わせて使われるようになった。
(実際にはかなり混在しており、同時代でも同じ目的で使用された。)
▲石川県の製塩土器分布
▲5世紀古墳時代後期の「台脚付製塩土器」
内浦地方でこの地方の製塩土器が出現します。
おそらく瀬戸内地方からの技術が流れてきたのでしょう。
能登島の土器製塩遺跡は5世紀代から、「台脚付製塩土器」をともない東部地区の富山湾岸ではじまります。
製鉄遺跡の展開と同時期に塩をつくる製塩遺跡が能登の外浦、福浦から志賀浦の海岸地帯に、8世紀から9世紀にかけて出現します。
製塩遺跡は能登でも内浦のほうが早く出現し、5世紀代、古墳時代から土器で伝統的に塩をつくった。
外浦の土器製塩はそれと異なったかたちで、畿内に近い若狭式で出現します。
http://www.town.shika.lg.jp/bokkai/syokudan2/yachio.html
★能登式製塩土器
▲能登半島の先端にある能登町(内浦町)の製塩土器
▲森腰遺跡
たばこと塩の博物館 公式HP
▲7世紀代飛鳥時代〜9世紀前半平安時代 「棒状脚付製塩土器」
「棒状脚付製塩土器」が用いられた6世紀代以降に、その分布域は能登島内全域に拡大します。
8〜9世紀代にかけて「平底形製塩土器」が導入されますと、能登島東部地区の土器製塩遺跡は減少し、能登島西部地区の七尾西湾沿いに遺跡が偏在すると考えられています。
■大型平底形製塩土器
▲能登国の製塩土器(平底形) 8世紀
この種の土器を用いた製塩の技術は日本海沿いに北上し、越後、出羽さらには陸奥へと導入されています。
▲平底形製塩土器
鰻目ゲンヤマ横穴群
■小型平底形製塩土器、支脚付き
▲羽咋市柴垣A遺跡出土 平安時代
▲9世紀後半平安時代中期の製塩土器支脚と小型平底形製塩土器
能登島町無関カキノウラ遺跡出土
やがて上下分離し、台の上に小型平底形製塩土器を乗せて使用するようになります。
平底タイプに使われる支脚
http://web.kanazawa-u.ac.jp/~arch/kouko44.pdf
金沢大学HP
■無関カキノウラ遺跡 能登島町
▲製塩土器出土状況
■三重県
★志摩式製塩土器
▲志摩式製塩土器 平安時代 斎宮跡出土
常陸に似た浅い焼塩用の製塩土器
直径20センチ弱 盥(たらい)形の土器
海水を煮詰めて作った塩(散状塩)をもう一度容器に詰めて焼くと極めて堅く焼き固まる。
志摩式は「焼き塩」用の容器である。
ところがこの土器に詰める塩がどこで生産され、焼き塩に加工されたのか、全く不明です。
http://www.human.mie-u.ac.jp/~koukogaku/archeologue/ise_n_p/28miedai.html
▲松阪市小狐遺跡の「かん水槽群」実測図 (『三重県埋蔵文化財センター 研究紀要』第9号)
採かん場所を「塩田」とか「塩浜」と言うが、伊勢地方では小字などの地名として、その名残を留めているところも少なくない。
太田家に伝来した古文書群の中に塩浜に付随して、「土舟」と言う施設のあったことも確認できる。
これは、かん水を溜めておく、いわゆる「かん水槽」を指すものと考えられる。
http://www.pref.mie.jp/bunka/TANBO/hakken/page47.htm
■愛知県
土器製塩の技術が東海地方に伝わったのは 三世紀末の古墳時代前期である。
愛知県では知多半島、三河湾、渥美半島に 小型丸底の半球状の容器+尖った角 の特徴的な製塩土器が発達しました。
▲松崎遺跡 東海市 古墳時代後期・奈良時代
いわゆるあゆち潟周辺は、古代の知多半島を特徴付ける土器製塩の発祥の地とすることができる。
そして、5 世紀の後半から6世紀に、この土器製塩が、半島全域へと展開していく。
知多半島の古代社会において製塩の果たした役割はきわめて大きく、この製塩に付随するようにして須恵器生産も成立した可能性が高いと考えられる。
▲5世紀後半の製塩遺跡
▲6世紀中頃の製塩遺跡
http://www.city.tokoname.aichi.jp/Files/1/4084/html/sueki1365k.pdf
大府市惣作遺跡(そうさくいせき)出土 製塩土器
http://www.city.obu.aichi.jp/rekimin/bunkazai/iseki/iseki04.htm
大府市HP
●製塩土器づくり
▲土づくり
粘土を採取する。採取場所は大浦湾内 (海水浴場の西)。図を参照。
採取した粘土は1年間屋外で天日や夜 霧、霜に当てて粘りを取る。
粘土だけでは乾燥時に収縮して亀裂が発生するため、砂を混ぜる。
水を加え、3〜4時間練り上げる。
冷暗所で2日以上ねかせる。
▲土器の成形
ねかせた素地土を再度練る。
成形。三河地方の製塩土器は、ひも積み上げ式が一般的だったとされる。
風のこない日陰で約2週間乾燥させる。
・土器内側の「つぶし」「磨き」
陰干しの後、ハマグリの殻やヘラを使って土器の内側を平らにする。
・天日乾燥
焼く当日、半日ほど天日干しをする。
▲焼き上げ
野焼き/縄文時代の焼成方法。
覆い焼き/弥生時代以降の方法。三河地方の平均的な焼成方法と思われる。
全体を灰や泥で覆うため、熱が逃げにくく均一に行き渡る。
●塩づくり
▲塩分濃度を高める
海水のままでは塩分濃度が低すぎるため、古代の佐久島では岩のくぼみなどを利用してホンダワラ(海草の一種)をつるし、 海水を繰り返しかけて水分の蒸発を促し、濃度を高くさせたと考えられる。
▲製塩
土器に濃度を高くした海水を入れて煮つめると、内壁に塩の結晶が付着する。
にがりなどの含有物が多く、灰なども混入するため、灰色の塩になる。
●塩の採取
器の内壁にこびりついた塩を、へらなどでこそげて取る。
土器はこの時に割れてしまうことが多く、発掘される土器には 完全な形のものはほとんどない。
http://www.japan-net.ne.jp/~benten/history/saron/gallerly/tomin/minwa/5Mreport2.htm
佐久島HP
■松崎遺跡
東海市に所在
知多半島西岸に位置
1988〜89年,愛知県埋蔵文化財センターが調査した
古墳時代から平安時代にかけての製塩遺跡である
http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo51/jinbun/kojin/17maruyama.pdfに詳しい。
■藻塩法の証明
もと愛知県埋蔵文化財センターの森勇一氏が7・8世紀の製塩土器40〜50片から
珪藻と呼ばれる植物プランクトンの有無を調査しました。
その結果,
どの破片も200個以上の珪藻遺骸を含んでいる。
種類はほぼ7つで,その7種類のすべてが海に住む珪藻。
しかもそのほとんどが,付着生のものであった。
そして珪藻200個中180個を占める「海藻付着生珪藻」は,塩分12〜35‰(千分率.1gに塩12〜35cを含む)の海域に生息し,ホンダワラなどの海藻や海草の葉や茎に付着する種類であった。
松崎海岸の近くの海には,海藻・海草がたくさん生える環境ではない.従って単に海水だけでは珪藻の数は少ない、付近の砂も珪藻を多くは含まない。
「来ぬ人を待つ帆の浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ」
と歌われるように、塩を作るときににはホンダワラなどの海藻や海草の葉や茎をなんらかの形で使ったことになる。
まさしく「藻塩法」と呼ばれる古代製塩法の存在を証明した。
http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdfより
■千葉県
加曽利貝塚
千葉市にある大きな貝塚です。
3600年ほど前になりますと、側壁の薄い素焼きの土器で作った製塩土器で塩を作ることが広く行われるようになりました。
製塩土器は小さなワインカップ状で、底に一本の先の尖った足がつき、砂浜に突き刺して立てるようになっています。
中に注がれた塩水は、素焼きの壁を浸透して蒸発し、濃い塩水になります。
それを煮詰めて塩を得たのです。
カップの部分は壊れやすいので、現在は足の部分の角状の土器がよく残っています。
伊勢湾岸の名和や太田川でも落ちていたものです。
http://otsubo.info/s_contents/333ban.html
大坪家の書庫
■新潟県
奈良時代には佐渡や越後からは、東北の城柵に軍事物資として塩が送られており、国家的要請により塩が生産されました。
▲新潟市製塩土器遺跡分布図
鷲崎、弾崎の遺跡(古墳時代 6,7世紀)
藻浦の遺跡(6,7世紀)
大津浜貝塚(6,7世紀)
菖蒲平浜の遺跡(6,7世紀)
などから製塩土器が発掘されている。
出山(でやま)遺跡からも製塩土器が出土しています。
▲出山遺跡製塩炉跡
▲奈良・平安時代の製塩設備模型
■大藪(おやぶ)遺跡
平安時代や中世の遺物・遺構が見つかりました。
遺跡の年代は9世紀後半から10世紀後半で、建物跡は見つかりませんでしたが、多くの製塩土器や6個の製塩土器を並べた遺構が発掘されました。
平安時代のバケツのような深鉢形の製塩土器がほぼ完全な形で見つかっています。
海岸に面していないこの集落でも塩作りを行っていたことがわかりました。
▲大藪遺跡からはバケツのような大きな平安時代の製塩土器が出土しています。
▲製塩土器出土状況
★佐渡式製塩土器
佐渡の塩造りは古代より製造されており、特に奈良時代後半から平安中期に隆盛を極め、佐渡式製塩土器という独自の進化がみられました。
http://www3.ocn.ne.jp/~meoto/sio/sio.html
▲佐渡式製塩土器
■青森県
前述したように青森県には 縄文時代の製塩土器 と 弥生時代以降の土器の土器が混在します。
ここでは平安時代の製塩土器。
▲六ヶ所村表館遺跡C住居跡・八戸市根城3丁目 出土
http://www.komakino.jp/ao-seien-pdf/ao-seien-9.pdf
青森の製塩遺跡考
▲白砂式製塩土器 8〜9世紀 陸奥湾
■内真部遺跡
内真部遺跡は、青森市内真部字岸田の平野部に広がる水田地帯に位置しています。
平成11年度に青森市教育委員会が発掘調査を行った結果、平安時代の製塩土器(塩を作るための土器)や、支脚(土器を火にかける際に、台のような役目をするもの)の破片が大量に出土する箇所を検出しました。
出土した製塩土器は火を受けたように赤くなっているものが多く、焼けてはじけたように細かく割れていました。
また、多量の製塩土器、支脚の破片に混じって炭化物、焼土粒が確認できたことから、これらの遺物は付近で行われた塩作りの際に、焼けはじけて使えなくなった土器や支脚などが捨てられたものと考えられます。
本遺跡においては、平安時代の日常什器である土師器や須恵器が数片しか出土していないことから、集落から離れて営まれていた塩作りの場であったことが考えられます。
本遺跡から出土した製塩土器は、白砂式土器と呼ばれている土器です。
白砂式土器は、バケツのような形をし、外面には粘土紐の継ぎ目が残っており、外底面には木版が押し当てられたような圧痕がみられます。
本遺跡のように海岸線付近の平野部に立地する遺跡は、本市ではこれまであまり確認されていませんでしたが、本遺跡を含めて、これまで県内で確認されている製塩遺跡の多くは、海岸線付近の平野部においてみられる浜堤という微高地に立地しているものが多いことから、新たに製塩遺跡が発見される可能性があります。
http://www.city.aomori.aomori.jp/bunkazai/inisie/aomori/uchi.html
まとめ
日本の各地に製塩土器を眺めてみるとなんとなくこのような流れが見えてきます。
▲仮説 製塩土器の技術伝播路
▲これは古墳の構造の文化の伝播路の絵ですが、若狭湾、能登半島のあたりの流れは、製塩土器の流れと近いものがあります。
▲仮説 製塩土器の進化
製塩土器を眺めていると 量を効率的に求めるための軸と、簡単に誰でも作れるようにシンプルにしてゆくという軸の2つが見えてきます。
プロはテクニックを習得してでも大量生産をめざし、一方で副業でも、女性でも簡単に塩を作れるようにする2つの流れです。
これは現在の工業製品でも見ることができます。
参考資料
http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdf
http://libweb.nagoya-wu.ac.jp/kiyo/kiyo51/jinbun/kojin/17maruyama.pdf
http://www.occpa.or.jp/pdf/ng03-6gensetsu/ng03-6.pdf
http://www.city.tokoname.aichi.jp/Files/1/4084/html/sueki1365k.pdf
http://mai-bun.hosp.med.tokushima-u.ac.jp/img/houkokusyo/s1_1syou2.pdf
http://www.ushiq.net/~e-book/local_history/history_at_ushiku.doc
http://www.pref.kagawa.jp/menpaku/tanken/page_u_3_2.html
http://www.city.dazaifu.fukuoka.jp/mpsdata/web/1126/018.pdf
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo06/0605hayan.pdf
2009年1月12日 清水 健一
Homeに戻る