最初に刈谷市郷土資料館で展示されているのを見たときにびっくりしました。
その造りは精巧で繊細、技術的な完成度も高い。
ほとんど木だけで複雑な動きをするものがよくできたなーという印象でした。
細部まで仕上げられた巨大は農具は「どうだ、私のウデを見ろ!」というような声が聞こえてきそうな職人の誇りが感じられます。
機能美とでもいうのでしょうか。
農具の持つ武骨なイメージとはかけ離れた当時のハイテクな道具です。
龍骨車とは揚水装置です。
この写真では左側が上で人はこちら側で操作します。
百聞は一見にしかずなのですが、長さは短いもので3m弱、長いもので6m程度のキャタピラーの様な大きな道具です。これは水路から田へ水を引くための農具。一種のポンプですね。
材質はほとんどの部分が木。下には大きな樋がつき、2つの車輪とチェーンのように連なった「串刺しの板」が多数あり 下の列はその樋の中を通っています。
左側のハンドルを手で回し、樋の中を通る垂直板を連続的に動かすことで樋の中の水を上にかき上げます。
右側は下で水路等に浸されています。
江戸時代に多く使われ、農業の発展に大きな力を尽くした道具なのだそうですが、つい最近 昭和初期まで使われていたようです。
愛知県でも珍しく、4つの博物館でしか見ることができません。
仕組みは簡単
数十個の羽根板が連接されていて、ハンドルを回すと羽根板と呼ばれる板が樋の中で動き、水を汲上げる。
羽根板と樋の間にはすき間がありますが、大きな圧力がかかるわけではありませんので、実用上はそれほど大きな問題ではなかったのでしょう。
揚水高さが1-2mの時、揚水量は1時間あたり、25-60立法メートルがあったようです。
軸や羽根板との接触部は潤滑されているわけではないので、摩耗は問題だったのでしょう。
実際展示されているものでも摩耗している部分が目立ち、これが精度を悪くし、故障の原因になったことは推察されます。
羽根板と串木
樋の中をとおる水をせき止める板のことを羽根板と呼びます。羽根板には垂直に棒(串木と呼ばれます)が貫通しており、その棒に図のようなピンが貫通する穴が串木と直角方向にあいています。このような構造の部品が数十個連接されています(竜骨鎖と呼ばれる)。チェーンの原形のように見えます。
ほら、このような竜骨鎖の形が動物の背骨のように見えたのでしょう。材質はもちろん木材。羽根板はけやき、ハンドル、串木部は樫、樋はヒノキとさまざまな材質が厳選されて使われているようです。
駆動の構造 なんと微妙な設計
羽根車をチェーンにたとえると駆動輪はスプロケットという感じでしょうか。
普通のエンジニアなら駆動輪の先端は羽根板のチェーンにはまりこむような構造を考えるでしょう。
でも、中国の技術者はじつに微妙な構造を考え出しました。
駆動輪は単純な棒のような構造で羽根板に接するだけです。
2つの羽根板が曲ってできる「へ」の字の頂点に駆動輪の棒がひっかかります。
羽根板列のチェーンは左右には曲りにくい構造のうえ、左右のレールまたは樋により規制されていますので横にずれることはありません。
これは非常にシンプルな構造なのですが、精度が必要で、摩耗してくると、すぐ具合が悪くなってしまったことでしょう。
摩耗した場合には羽根板の竜骨鎖を裏表ひっくりかえして使うというようなことがあったのかもしれません。
私が設計するのなら、竜骨鎖と駆動輪の材質が同じ堅さだと摩耗が多くなるので、あえて駆動輪側を柔らかい材質を使い犠牲的に摩耗させ、その代わり駆動輪の部品の交換をしやすい構造としますが、果たして実際はどのようになっているか更に実物を調べてみたいですね。
また駆動輪の歯数が多いとへの字の角度が浅くなり、すべってしまいますので、駆動輪の直径を大きくすることができません。
●刈谷市郷土資料館
▲刈谷市郷土資料館に展示されている龍骨車
説明では「竜骨車: 灌漑用の揚水機で、足で踏んで回転させ、低いところから水を汲み上げて田へ注ぐ。
江戸時代に各地で多く使われた。」とあります。
本来付いていたであろうハンドルは展示スペースの都合か 外されています。
足で踏んで操作をすると表現されていますが、実物を見るかぎりは手で回す構造のように見えます。
●半田市立博物館
▲使用状態での写真?
ここでは使用状態のように見える写真が展示されています。
説明は特になく写真展示されていますが、実際の使用状態の写真だとしたら、大変貴重なものです。
似たカラー写真が福井市治水記念館という博物館に展示されており、また下端が水につかっておらず、この状態では使えません。
保存している龍骨車だったので水につけられなかったと考えると この写真は説明用の演出かもしれません。
そんな舞台裏を推測するのも博物館見学の楽しみのひとつです。
福井市治水記念館 展示写真
▲半田市立博物館の龍骨車
▲ほぼ完全な状態のようです
▲左がハンドル側すなわち上側、右が下側で水中に没する部分
▲外されたハンドル
手で回す構造です。
ハンドルの幅からみると 片側で1人 左右で2人で回すことができるようで。
▲羽根板
●長久手町 農業総合試験場 農業民俗館
竜骨揚水機
明治30年頃のもの。
知立方面より購入して使用したもので 当時はこれより長く 20数名でかついで運んだ。
寄贈者 名古屋市千種区 高柳康良
▲長久手町の龍骨車
かつては6.5mもの長いものだったようです。
▲痛みがひどい。
ハンドルの軸受けには油の跡が残る。
▲ハンドルが片側 変な方向に向いているのは展示スペースの都合でしょう。
▲上部に棒を上からと下から支えるような構造があります。
長い棒を通して 複数の人が肩にかついで運搬したものでしょう。
▲農業民俗館には模型も展示されています。
「竜骨車 現在東京子供博物館模型
農業用揚水車で 昔 中国より日本に伝えられたもの。
チェン状の運水板が竜の骨の様だというので竜骨車とゆう。
之は江戸時代 軽便な足踏揚水車 踏車の出現で姿を消した。
模型製作時資料が無く労作の一つである。」
●名古屋市港区 農業文化園
▲ここの龍骨車は復原品です。
▲各部の名称が展示されている唯一の例
●草津市 琵琶湖博物館
▲琵琶湖博物館の龍骨車
極めて保存状態の良い品です。
●近江八幡市 曳き山とイ草の館
▲「曳き山とイ草の館」の龍骨車
一般とは異なり、使用状態での展示となっています。
●近江八幡歴史資料館
▲近江八幡歴史資料館の龍骨車
2つ保存されているのですが、屋外保存(屋根はある)のため、大切にはされていない様子。
●野洲市立歴史民俗資料館
▲龍骨車
●兵庫県 相生市立歴史民俗資料館
おそらく兵庫県で唯一の龍骨車
「龍骨車: 中世以来用いられてきた揚水機。
江戸時代後期ころには踏車(ふみぐるま)にとってかわられました。
相生市農業協同組合 寄贈」
▲相生市の龍骨車
博物館の方のお話では、江戸時代後期にこの地方で使われていたものが農協に保存されていてそれを展示したとのこと。
▲ハンドルの構造などから近江地方の龍骨車の形態に近いように思われます。
▲精緻な構造がおわかりいただけると思います
●奈良県立民俗博物館
▲大和郡山市の奈良県立民俗博物館のモノ
リュウコシ(竜骨車)と表現されています。
●大阪府立海洋博物館 なにわの海の時空館
ここには龍骨車の実物は展示されていませんが、使用状態での模型展示があります。
使用状態での展示は日本で唯一の展示となります。
貞享元年(1684)に河村瑞賢(かわむらずいけん)が安治川を開削し 大阪港を整備した際に龍骨車が使われたようです。
江戸時代初期には踏車はまだ発明されていませんので、龍骨車しか方法がなかったのでしょう。
▲龍骨車操作の模型
現在日本に残されているものと異なり 足踏み式
▲安治川を掘削した土木工事には大量の龍骨車が使われたことでしょう。
川の一部を土嚢や石垣で仕切り しみでる水を竜骨車でくみ出し、川底を掘削するという方法です。
多段で使用し大きな揚程を得ています。
▲龍骨車屋
この地図は江戸元禄時代のものです。(大阪旧市街北東部)
赤丸部分で解説された記述に「竜骨車屋」とあり、この時代には大川右岸の地域で龍骨車が作られたようです。
この他にも
・奈良県天理参考館
・大阪府大東市の資料館
・大谷女子大学博物館。
・京都府 京の田舎民具資料館。
・東京農業大学図書館
・国立科学博物館
・埼玉県立博物館
にて保存されているようですが 実見していませんので、見たら追記します。
もともとは中国で発明され、日本に伝わったもののようです。
機能的で完成された構造だったせいか、現在に伝わるものとほとんど同じものが、中国の文献で見ることができます。絵は宗應星「天工開物」(1637年)に記載されている龍骨車
http://dajiyuan.com/b5/3/6/6/c13251.htm より
「たはらかさね耕作絵巻」(室町末期から江戸初期の間に土佐派の画人によって描かれたものと推定されている。)に描かれています。
4人掛け、足踏み。羽根板の幅は最近のものと比べるとずいぶん広いように見えまえす。
更に古い京都の大徳寺大仙院の室町時代後期の襖絵「四季耕作図」にも龍骨車が描かれています。
ことから室町時代には既に日本に伝わっていたことが推測されます。
日本に伝わったのは平安時代初期のことであるとされるが確実ではない。
江戸時代前期には実際に用いられていたようです。http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/tosho/shiryo/tawara.html より
台湾の龍骨車
中国と日本だけではありません。
アジアの各地に驚くほど類似のものが存在しています。
これは台湾の龍骨車の中で手で動かすタイプのものですが、細部は微妙に日本のものと異なります。
これはハンドル部分にリンクを付けてやや遠方から操作できるようになっているようです。
一人でバランスよく運転できるようにするため、あるいは手の無駄な上下動を少なくして疲れないようにするための工夫かもしれません。
台湾の龍骨車の操作の写真 足で動かすタイプのものです。
中国の古い龍骨車の絵とほとんど同じものが台湾に残されているようです。さすがに中国直系の文化です。
足で動かすものは日本では私は見たことがありませんが文献によると存在していたようです。http://taoyuan.randdf.com/digimuseum/water/introduction/waterD/wd06/01/02/D06-01-02menu.htm より
台湾の龍骨車。
実際に使われている状態の写真ではなく、展示施設での状況です。
来訪者が自由に体験できるようにするために、足場が組まれたものです。下端の水への浸り具合などはわかります。揚程は1m以上ありそうですね。
http://myweb.hinet.net/home6/mpatc2003/b2_fishvillage.htm より
▲台湾の切手に見る家畜駆動の龍骨車
日本の資料では見ることはできませんが、家畜駆動による揚水装置があったようです。
カンボジアの龍骨車
カンボジアでは龍骨車はロハッチュンと呼ばれているようです。
発音が「りゅうこつしゃ」と似ていますのでおそらく龍骨車という単語がカンボジアにそのまま伝わり、カンボジア語となったものでしょう。
駆動輪が極めて大きくなっています。http://chimeian.hp.infoseek.co.jp/aim/14nenhoukoku/14nenjihoukoku_3.htm より
これはタイの龍骨車。
タイと中国との関係は日本以上に強いため、農具でも中国の影響を強く受けていても不思議はありません。
東南アジアのものは樋の横板の背が高いように思われます。
機能的にの板の高さは揚水の機能としては関係がないように思われます。なぜ高いのでしょう・・・?
仮説としては、傾斜が緩いときに、装置を高速で回すと、羽根板の上を水があふれながらでも、揚水できるのではないかとも思われますが、実際にやってみたわけではありませんので、わかりません。奄美大島の原野農芸博物館で実物が展示されているようです。
http://www3.ocn.ne.jp/~amamicf/hakubutu/t31.html より
愛知県の博物館でいくつか展示されていることから、当初私は龍骨車は日本全国に分布しているものと思っていました。
確かに珍しいものではありますが、精巧な造りからその当時はかなり高価で、それが大切に残されている理由だと考えていました。
それ以上調べようもなかったため、しばらくそのままでいましたが、ある日、ある方から私の記述の間違いを指摘され、その方のHPで龍骨車の極めて詳しい記述を通して龍骨車の背景を知ることになりました。
それによると●日本全国にあるものではなく、愛知県と滋賀県を中心に残されているものである。
等を学びました。
●愛知県と滋賀県では形態が微妙に異なる。
●江戸時代には多く普及していた。しかし、寛文年間(1661〜1673)に踏み車が発明され、しだいに駆逐されてしまった。
●中国で発明されたのは『後漢書』によると畢嵐という人物によって西暦186年である。
●西暦829年の官符に龍骨車に関する記述が見られる。中国から日本に伝わったのは江戸時代以前の平安時代初期であることが推察される。
●同様に朝鮮には6世紀半ば〜7世紀半ばに伝えられた。台湾への伝来は不明。
●「りゅうこし」とも呼ばれていたこと「翻車」とも称された。
●足踏み式があったこと、牛の力、水の力によるものもあった。
●愛知県には現在十台程度が残されている。
安城・刈谷・豊田・半田・師勝、長久手、名古屋市。
常設で展示してあるのは刈谷市郷土資料館と半田市立博物館、愛知県農業総合試験場附属の農業民俗館の3館 。
名古屋市農業文化園には複製品が常設展示されている。
●滋賀県では 近江八幡歴史資料館
近江八幡市曳き山とイ草の館
琵琶湖博物館
野洲市立歴史民俗資料館
高島町立歴史民俗資料館
水口町立歴史民俗資料館
滋賀大学史料館
に保存展示されている。
●奈良県では天理参考館(?)
奈良県立民俗博物館。
●大阪府では
大阪府大東市の資料館
大谷女子大学博物館。
●京都府では京の田舎民具資料館。
●関東では
東京農業大学図書館
国立科学博物館
埼玉県立博物館
にも収蔵されているらしい。
滋賀県と愛知県は残されている龍骨車が集中する地帯です。
似たように見える 両地域の龍骨車の構造も子細に見ると微妙な違いがあります。
近江型
・ハンドルが軸に対して2本の支柱で支えられている。
幅は大きくなってしまうが力に対しては合理的な設計
・上に伸びている支柱の部分(「とりい」と呼ばれる)が4本
愛知型
・ハンドルが1本
・「とりい」が2本
「東海地方に保存の 竜骨車・踏車と手回し水車」(知多流体工学研究所 石川/石川著)という本には
●龍骨車は東海4県に9台、全国の約半数が保存されている
等が記されています。
●流量は揚程303mmで1時間に27klから67kl(すなわち27t-67t/hr)との実験値がある
●愛知県のモノは刈谷市での製造が多い
●尾張が8台、三河では豊田市郷土資料館に1台所蔵されている
●長久手の農業民俗館に所蔵されているものはかって6.5mもの長いものだった
●所蔵は半田市1台、安城市2台、刈谷市2台、知立市1台、豊田市1台、長久手町1台、師勝町1台だけである。(農業文化園の記述がない)
●保存されているものはほとんどが2人で手で操作するもの。師勝町のものが1人で操作するタイプのものであること
足踏み式水車というものがあります。
これは博物館の超定番的展示物で、どこの民俗系博物館に行っても必ずあるのではと思うくらい一般的な展示物です。
これが江戸時代に大阪で(?)発明され、急速に普及し昭和初期まで広く使われていました。
それまで広く普及していた(?)龍骨車はこれに置き変わってしまいました。龍骨車と比較したときの足踏み水車のメリットを考えてみました。
.
まず、摺動部分は少なく、効率はよさそうです。構造も簡単で故障も少なかったと思います。
制作も簡単でコストも安かったと思います。
一方龍骨車はこれと比較すると 揚水の高さが容易に確保できそうです。
龍骨車は長さ3m、設置角度を仮に30度とすると高さは1.5m。水に浸る部分を20cmとすると揚程は1.3m。
この揚程を1段で足踏み水車で実現しようとすると直径で3mが必要となり、巨大なサイズになってしまいます。
これは現実的ではありません。
2段なら小径の水車でも実現可能ですが、構造が複雑になり、人も必ず2人必要ということになり、龍骨車の方がメリットがあるように思います。
また特別な足場を必要としないので小規模の揚水にすぐに使えるメリットもあるように思います。
操作する人が水の上に立つことがないという理由もあったのかもしれません。
すなわち博物館で見る龍骨車は日本全国でもおそらく30も残っていないような貴重なモノだったのです。
そして愛知県は滋賀県と共に龍骨車の宝庫だったのです。愛知県とはいっても、尾張地方が主で、三河地方には豊田市に1台のみ。
また、分布は突然に終わり、岐阜県や静岡県では見ることすらありません。
愛知県と滋賀県の両方に接する三重県も全ての博物館を見ましたが龍骨車はありませんでした。しかしどこか遠くの小さな博物館や古道具屋をおとずれるとその価値もわからないままひっそりと残されていた龍骨車が見つかる気がしてなりません。
博物館訪問の楽しみの一つです。
この項 加藤良平氏の調査・アドバイスに基づきます。
こうしてHPを公表しておくとご指摘や更なる情報をいただくことが多いです。
マイナーな内容でも研究されている方やマニア、ファンは必ずいるもので存在に驚くとともに深い知識、情報に敬服します。
龍骨車について記載されている文献等についてご指導いただいたので合わせて記載しておきます。
●狩野之信 大徳寺大仙院 四季耕作図
●岩佐又兵衛 耕作図屏風 出光美術館蔵
●芳井敬郎「龍骨車・踏車研究」『日本歴史民俗論集2』吉川弘文館(平成5年)
●『田中正俊歴史論集』汲古書院(2004年)
豊年税書 1685年 著者 土屋又三郎
序、溜井之事に
「竜骨車を以揚る事も、有水の落所の溜りには、石を敷菰莚をしきてよし。是には下ほれずして、脇も崩れざる也。直用水にかけるとも、溜の心得有べし。或は溜にため置、又ためより竜骨車にて、二段にも三段にもあぐれば、高き田江も水かゝるなり。」と記載されているようです。
●和漢三才図会
和漢三才図会の「水類」に記載あり。
http://shinku.nichibun.ac.jp/kojiruien/html/sang_1/sang_1_0270.html
訳本の平凡社東洋文庫版をみると
巻8の120頁に両サイドカット、人物なしの図が載ります。
また人倫訓蒙図彙(平凡社東洋文庫版)219頁に竜骨車を作っている図が載ります。
●難波名所 蘆分船 巻1の「松虫塚」の項
難波名所
この絵を見ると上下2段とも樋を作り上段を使って水を汲み上げているように見えます。(回転は通常と逆)
下車が十分に水に潜っていないといけないとか、揚程上ロスが大きいというデメリットは推測できますが ありえない、不可能ということは言えません。
だとすると昔このようなタイプがあったのかもしれません。新たな謎。
●加賀友禅の和服の模様として日本の米作風景とともに龍骨車が表現されています。
小袖 茶綸子(りんず)地四季耕作模様 19世紀 野口彦兵衛旧蔵
●蒔絵の施された漆器の模様にも龍骨車が表現されています。
農耕蒔絵十二組杯 近江商人家系の内池家に伝わる
『日本農書全書 巻71・72』(絵農書1・2)農山漁村文化協会(1996・98年)に記載されています。
●流量計測の歴史 潟Iーバル 小川 胖
http://www.ksplz.info/+museum/ogawa/ogawa08.pdf
龍骨車は出てこないのですが、アルキメデスのポンプと呼ばれる螺旋水車「龍尾車」や謎の揚水機の「升降龍」が記載されています。
●訓蒙図彙の翻車の図(勉誠出版(2012年)、518頁)
■なぜ愛知県と滋賀県にのみ残されているのでしょうか?何か特別な理由があるのでしょうか?
更に不思議なのはなぜ尾張地方に多く残され、三河には数が極めて少ないのでしょうか?
何か納得がゆく理由がありそうな気がします。足踏み水車が龍骨車を駆逐したにしても、両県とも足踏み水車はたくさん残されていますので、これだけでは他県との差を説明できません。
むしろ、足踏み水車と龍骨車が「共存」していた理由もあるように思います。■足踏み水車は寛文年間(1661〜1673)に日本で発明されたということなので、龍骨車のずいぶん後のことです。
私は順番が逆のように思っていました。技術的な構造としては龍骨車の方が高度で、足踏み水車の発展形として龍骨車が発明されたと誤解していました。
足踏み式水車の構造は簡単で効率もよさそうなので、龍骨車を駆逐したのは理解できます。
ただ、足踏み式水車の発想は比較的あたりまえですので、なぜ龍骨車の前に発想されていなかったのしょうか?
たまたま発明されていなかったといえばそれまでですが、技術者的な直感からはなにかもう一つ歴史の流れがかくされている気がしてなりません。■日本に残されている竜骨車は私の知っている範囲では全て手動タイプです。
図版にも足踏式のものは記述されているので、足踏式が日本に伝わったことは確かだと思うのですが、なぜか滅びてしまったようです。
水車ではほとんどが足踏式です。
何故???
2007年10月14日 清水 健一