踏車/足踏み水車

田へ水を引く道具


はじめに



分布が技術の進化を表わしていて面白いのです。

踏車(足踏み水車)というのは このような大きな水車です。
博物館ではけっこうよく見るものなので、どこかでごらんになったかたも多いでしょう。
説明も明快で 「水を田へ引き入れる道具。上に乗って足で踏んで動かし、水をくみ上げる」というような内容。
使われている状態の古い写真が添えられているときも多いので 理解は容易でしょう。

仕組みも単純なのでそれほど長い時間眺めていられるものではありません。
新しい発見もすぐになくなり、すぐに見ることに飽きてしまうかもしれません。

ひとつだけ見るのだけではなく たくさん見てみるとおもしろさがわいてくるのです。
詳細に比較して見てみると それぞれで似ているところと違っているところがあることがわかります。
それらをまとめて分布をとってみると法則性がわかり けっこう不思議なことが見えてきます。
そんな足踏み水車の構造と分布にこだわってちょっと調べてみました。
この文章を読むと 足踏み水車の見方が変わることうけあいです。

足踏み水車とは



灌漑(かんがい)の道具。つまり田へ水を引くための農具です。
羽根車を人が足踏みすることで回転させ、水を汲み上げる揚水機のことです。
水車のようですが、水の力で回るのではなく、人が動かして水を高い所に上げるポンプです。

構造

骨格となるのは中央にある縦の支柱が2本。
 後述する「明治型」では「鳥居」と呼ばれます。
足で踏み 回転させ水をくみあげる水車の本体は「羽根車」。
羽根車は「蜘蛛手」と呼ばれる細い木材に板材を張った構成が一般的です。
木製のケースは「鞘箱(さやばこ)」と呼ばれます。

当然ですが、それぞれの部品にも名前があります。
江戸時代の職人の名前の付け方にはいつも感心します。

■大きさ
大きさはいろいろあります。羽根の枚数も大きさによりさまざまです。
4尺5寸(1350mm)は13枚
5尺(1520mm)は  14枚
5尺5寸 は(1650mm)15枚。 16枚のものもあるようです。
6尺 1755mm   18枚

大きい踏車は水量を多くするというよりも、高さすなわち揚程を確保するのが主な目的です。
しかし 大きいと回転が重くなってしまい、運転者の体重以上には力をかけられないので大きさに限界があります。

人が乗れないような小さなものは 手で回す「手回し水車」です。

■精密機械
単純な構造ではありますが、高い精度が必要です。
ケースとなる鞘箱(さやばこ)と羽根のすき間が小さくなくてはなりません。水が漏れて効率は極端に落ちてしまいますから。
そのために 羽の一枚一枚が円周方向、サイド方向にずれがないように作られています。
それぞれの羽根板の位置が相対的にずれていると、鞘箱との間のすき間になってしまいます。職人芸でしょうね。
しかも 水の中で使う道具ですので、水没、乾燥を繰り返しても ゆがんではいけません。

人が乗り、大きな力が加わり かつ長時間運転する道具ですから摩耗は避けられません。それを少なくするように軸を太くしたり、均一に摩耗するように材質を厳選しています。

■材質
材質は耐水性と軽さの面から主にヒノキが使われました。地方によっては杉も用いられたようです。

■軽量が重要
使うときに田へ運び 現場で組み立てたので 保管場所から田まで運ぶ必要がありました。
現代のように軽トラックがあるわけではありませんので、人が担いで運んだのです。
2人で天稟棒で担ぐこともありましたが、1人で運べたらそれにこしたことはありません。

軽量に作ることが踏車の設計ポイントになります。
木材も薄く、骨構造になっているのも 軽量を狙った為です。
樫などの重い材料は使えません。

分解して鞘箱は頭からかぶって、羽根車を背負って縄で持ち 一人で運んでいる姿を想像してみてください。
天秤棒の前に鞘箱、後ろに羽根車をぶらさげて担ぐ。2人で天稟棒の真ん中にぶらさげて運ぶこともありました。

■組み付け方法
羽根車と鞘箱は簡単に分解できるようになっていて、組み付けるときは 羽根車を後ろ上側から鞘箱に入れつつ 車軸を縦棒に入れます。



▲上から差し入れるだけのシンプルな構造

構造上の工夫

■羽根の角度



羽根板を放射状に取付ければ構造はずいぶん簡単に出来るのですが、そうではなく、羽根車を角度を付けて取付けたところが大発明。

こうすることにより、簡単に揚程を高くすることができるのです。
放射状に取付けた時の揚程は車軸の高さまで高めることはできませんが、傾けて取付けることで車軸の高さまで水を揚げることができるようになります。
実際の足踏み水車を見ると車軸の高さ以上に出口を高くしている例は見たことがありません。軸のちょっと下の高さに水の出口を設けることが多いようです。

■あふれ防止板
鞘箱の上部、羽根車の板と重なる部分の左右に 板が付くものがあります。
回転が上がると水が盛り上がってきますので、水が横にあふれ出さないようにするための工夫です。



▲あふれ防止板。明治時代に入ってからの工夫のようです。

■逆流防止蓋
一部の地域の踏車には 出口の部分に片側にしか開かない板が儲けられています。
水を汲み上げる時に開き、水車の回転を止めた時に、逆に田から水が戻らない工夫です。
ワンウェイバルブですね。
これが必要とされるのは揚程ギリギリ、田の畔を切り下げて使うような特殊な条件の時のはずですので そのような条件の田で使われたものでしょう。



▲逆流防止蓋 静岡県袋井市の浅羽郷土資料館の踏車 水の出口には一方にしか開かない逆流防止弁がついている。
 写真はちょっとわかりにくいですね。

■羽根車軸
この部分には水の重さと人間の体重がかかり かなりの面圧になります。
しかも長時間にわたって運転されるため踏車のもっとも重要で難しい部分です。

摩耗を少なくするために軸はある程度太くしたい。でも太すぎると支柱の幅に入りきれなくなる。
そのようなバランスで計算されつくされた太さとなっています。



▲羽根車の軸部分

■軸受け
前述したように羽根車は簡単に組み付けられる構造になっています。
多くは支柱の後ろ側から羽根車を入れるようになっていますが、まれに前方から入れる構造になっているものがあります。
わざわざ入れにくい方向から入れる構造にしているのには理由があると思うのですが、ちょっと不思議。



▲軸受け部組み付け構造

■穴が開いているのは棒を通すため



鞘箱に不自然な穴があいているときがあるのですが、これは天秤棒や縄を通すための穴です。
丸穴ではなく、大きく切り抜いてある時もあります。

■竹棒を固定するための突起

支柱に7〜10p程度の突起があるときもありますが これは竹などの杭を固定するための支えになります。

 

使い方

足で羽根車の端を階段を登るようにを踏みおろし 連続的に水車を回転させ、水を上にあげます。



用水の水位が田よりも少しでも低かったら踏み車が必要とされました。
また 普段は水位が高くても、渇水期に水位が下がると 必要な時に指をくわえていなくてはならないため 踏車の登場ということになります。



▲使用状態を再現している展示。このような展示方法は博物館の中では意外と珍しい。
 大阪府東大阪市 鴻池新田会所

人が上に立って使うのですが、踏車だけの状態では人の安定がとれないので、木や竹の棒を水車の左右に立ててそれにつかまって運転しました。
棒は左右に一本づつの時や、2本、片側に3本、計6本を三脚のようにして使ったこともありました。

長時間連続して操作をするため けっこう重労働。
左右の高い位置に棒を渡して 上に筵(むしろ)を乗せて日よけをつくるというような使い方もありました。



▲6本で支えた使い方の例 (磐田市見付学校展示)
 ちなみに水車がちょっと特殊な形状なのと、学生服で少年が操作しているのはちょっと不思議です。

単調な仕事なので女性がこれを扱うことも多くありました。
体重が必要なので赤子を背負って使用したこともあったとか。

揚程が大きい場合には踏車を2段、3段を直列に使いました。

■所有形態
高価なものであったため個人で所有されることのほか 仲間で所有することもありました。
あるいは地主のものであったり 村の共同所有などさまざまな形態がありました。
村の共同所有の場合には庄屋の家に保管されていました。

条件

■金額
明治時代には5丁で25円
直径5尺5寸のもので60匁 当時の米一俵と同じ値段でした。

■能力
農具便利論には
「五尺の車にて踏めば 一羽にて水四五升づつあがるなり」
と記されています。

一枚踏むと4〜5升(7.2〜9L)毎秒2回だと52〜65L/時間の揚水能力ということになります。
実験でも25cmの揚程で40〜60L/時間であることが実証されています。

楽に長時間 効率よく揚水する場合には30cm程度の揚程差が実際でした。

揚水能力では踏車は龍骨車の4倍程度で 能力的に優れていることがわかります。
この能力差のために踏車は龍骨車を駆逐してしまいました。

歴史

まず歴史に登場するのは「水車」です。

日本で最初の水車は「日本書紀」の第22巻に掲載されています。
推古天皇の御代(592年〜628年)飛鳥時代、
「18年の春3月に、高麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり、旦能く彩色及び紙墨を作り、井て碾磑造る。蓋し碾磑徴を造ること、是の時に始るか」

すなわち、610年3月に朝鮮の高麗王の命により、曇徴(だむじん)という僧により日本にもたらされたとあります。
碾磑(てんがい)とは、中国古代の水力利用の臼。脱穀用のつき臼と製粉用のすり臼の総称で、この動力として使われたのが水車であったと考えられています。

1世紀後の大宝元年(701年)に制定れた「大宝令雑令」の中にも碾磑(てんがい)は登場します。
「凡そ水を取り田に灌漑せんとするには、皆下より始め順次使用せよ、其渠によりて碾磑を設くるには国郡司を経、公私妨害なくば之を聴許せよ」と書かれています。
すなわち「水を取り入れて田をかん漑しようとする者は下流より始めて順次上流に使用すること、
堰を作って水車を作り、粉ひき用の臼を設置しようとする者は 国司や郡司の許可を経る事 誰にも悪影響がなければ許可される。」という意味です。

これらの記述は灌漑には触れていますが、すべて動力用の水車で、灌漑用の足踏み水車ではないようです。

ちなみに 九州大宰府の太宰府・観世音寺講堂前には「天平の碾磑」と称して巨大な石臼が保存・展示されています。
制作年、動力など不明で「謎の石臼」となっています。



 写真は http://saitodazaifu.blog109.fc2.com/blog-entry-3.html および http://barakan1.exblog.jp/12668262/より

本題に戻って
絵として水車が現れるのは室町時代です。
室町時代の「石山寺縁起絵巻」には瀬田川の水を汲み上げる水車の図があります。



▲灌漑用水車 石山寺縁起絵巻

この絵を見るとこれも揚水用の水車で 川の流れの力で水車を回し、横に付けられた容器で水を上にあげるタイプの水車です。

踏車が発明されるのは この絵が描かれた時代よりずいぶん後の 江戸時代初期です。
流れる水を使った動力用の水車を見ていれば、逆に動力を与えてやれば水を移動できそうだぐらいの発想はだれでもできるはずなので、同時期に灌漑用の足踏水車があってもよさそうに思います。
歴史として証明できる足踏み水車の発明がやけに遅いのはちょっと腑に落ちません。

踏車がはっきり文章に現れるのは 「百姓伝記」江戸中期1680年の東海地方の農書。著者未詳。

次に踏車の記述があるのは大石久敬の「地方凡例録」(じかたはんれいろく)1793年(寛政5年)

最も詳しく論じられているのは江戸時代の著名な農学者 大蔵永常の『農具便利論』(文政5年・1822年)
 昔年(むかし)より井路の水を高燥の田地へ揚げるには、竜骨車を用る事、諸国一般なりしに、
 寛文年中より、大坂農人橋の住、京屋七兵衛、同清兵衛といえる人、この踏車を製作し、宝暦、安永の頃までに諸国に弘まり、今は竜骨車を持ちゆる国すくなし。



「右ふミ車にて水を揚る図
 此の板の上におもしをおく
 ○五尺の車にてふめば一羽にて水四五升づゝハあがるなり
 ○高田ニハ 車を二ツも三ツもつぎて用」

江戸時代後期にはすでに竜骨車は滅び、新たに発明された踏車がそれに置き換わったこと、
踏車は江戸時代のはじめ、寛文年間(1661年〜1672年)に大坂の京屋七兵衛 清兵衛が発明したこと、
宝暦(1753年〜1754年)から安永(1772年〜1779年)の頃には全国に普及したことが記述されています。

踏車以前に「龍骨車」と呼ばれる灌漑用の機械がありました。
龍骨車は中国から伝わったものですが、足踏水車はこれに置き換わるように普及したようです。
詳細は龍骨車の記述を参照ください。

踏車は日本で発明されたものであるとも中国から伝播したものであるという2つの説があり どちらかはまだ定まっていません。

福岡県の大莞村(現大木町)の猪口萬右衛門が製作に成功したとの記述もあり、萬右衛門の功績を讃える水車碑が、大木町三八松にあります。
この人は元文7年(1739年)に生まれ文化8年(1811年)に亡くなっています。
発明から100年後の1760年代にその改良に成功したものと推定されます。

踏車は農業の生産性を飛躍的に高めた立役者です。

そして つい最近 昭和30年代まで使用されていました。子供の頃 見た人や実際に操作した人も多いと思います。
動力ポンプ、特にバーチカルポンプと呼ばれる安価で大流量の石油燃料駆動のポンプが一般農家まで普及して 踏車はその役割を終えました。



▲バーチカルポンプ この写真では動力源に電動モーターが使われていますが 当初は発動機から布ベルトで動力で伝達され駆動されていました。



▲バーチカルポンプも農作業の石油動力化によってもたらされた産物です。
 技術の変換点を示す貴重な遺産であるのですが、実物を展示している博物館は極めてまれです。
 三重県四日市市の小さな博物館 平津町郷土資料館にはバーチカルポンプが2台展示されています。

やがて バーチカルポンプも専用のエンジンポンプや電動水中ポンプに主役の座を譲り、
今では 足踏み水車とともに完全な「博物館アイテム」になっています。

土木への応用

水を効率よく排水する手段は当時はこれしかなかったので、土木工事でも踏車が使われました。

博物館で取り上げられているのは 新潟県の内野新川の土木工事です。
日本海側には西風に吹き寄せられた砂丘により、内陸に取り残された潟、湖、湿地帯が点在します。
新潟の南西部、西川と中ノ口川に挟まれた地域も 鎧潟(よろいがた)、田潟(たがた)、大潟(おおがた)の三潟をはじめ多くの潟が存在していました。
それが湿地帯となっており、ひとたび洪水が起これば なかなか水が引かず、大きな被害が出ました。
ちなみに今の新潟大学はそれらの潟を作る砂丘の上にあります。
この巨大な砂丘を切り開いて大潟の水を海に排水するのが内野新川(4.5km)の造成工事です。
「西蒲原三潟悪水抜き」と呼ばれました。中心となったのは長岡藩領中野小屋村の割元であった伊藤五郎左衛門。
文化15年(1818年)に着工し、文政3年(1820年)に完成しました。



▲砂丘を掘削し潟の水を抜く排水路を作ろうという計画がもちあがりました。



▲高さ19mの金蔵坂の掘削

工事の場所はここです。
上下に流れるのが それ以前からあった西川。 左右に流れる大きな川が新たに掘削された内野新川。
地元住人は信濃川の水位低下を恐れて、信濃川に注ぐ西川の水量を減らさないように要求したため 内野新川を西川の下を通す水路の立体交差が考えられました。
西川の河床の下に木製の底樋を2本埋めて新川を通して、その上に土を1m 盛って西川の川底としました。
その工事のために西川をいったん迂回させ、工事後戻すという大工事です。
西川の水位よりも低い場所の工事となるため、大量の排水が必要となり、踏車がたくさん使われたのです。



▲いったん西川を迂回させ、そこに木樋をつくりその上に再び西川を流す大工事です。



▲掘削中の新川は西川よりも水位が低いためそこから排水するためには 3m 程度水を汲み上げる必要があり、踏車の大量配置が行われました。

現在もその工事により作られた水路の立体交差は残っています。2つの川は流れていますが 大きな新川の上を細い西川の水を通す鉄製の水路橋がまたいているだけで その歴史を知らない限りは ごく普通の風景になってしまっています。



▲工事で使われた踏車 新潟県歴史博物館の展示。
 踏車を5台ずつ、10段に配置して 全揚程差約3m を確保しました。

この工事に関しては 新潟県歴史博物館と新潟市歴史博物館みなとぴあ の2館で詳しく展示されています。

このほか踏車が土木工事に使われのは
 ・見沼代用水路開削工事
 ・印旛沼干拓工事
 ・新潟県加治川分水工事
などに記録が残っています。

分類

踏車は大きくとらえると 踏車なのですが、細部では微妙な違いがあります。

大別すると江戸型と明治型の2つのタイプに分類されます。



@ 江戸型
底辺の横棒が左右に大きく張り出し 垂直にたつ縦棒は水車の中央、軸のやや上までで短い。
斜め棒でそれを支える。
「あふれ防止板」はない。

江戸時代に記された『農具便利論』(文政5年・1822年)の図にも表わされている形式で 初期からある基本的な様式であることがわかります。
江戸型といっても明治、大正、昭和まで使われてきました。



B明治型
底辺の台の横棒は短く左右に張り出さない。
縦棒は水車の上まで伸び、上部で左右がつながり「鳥居」と呼ばれる
支柱を支える斜め棒はない。
左右に「あふれ防止板」がある。
明治時代に入ってから現れた様式。
軽量で頑丈が改善ポイントでしょう。



愛知県に残されている明治型の踏車のうち13台には「岐阜県大垣市本町踏水車製造所 中野屋石川政七」の印があります。
多く残されている明治型の踏車も意外と少数の工場で作られたものかもしれません。
それにしてもこの大垣市の中野屋踏水車製造所というのは どんな所なんでしょう? そして今はどうなっているのでしょう? 今後の調査アイテム。



A江戸型変形
江戸型と明治型の中間的、いわば折衷型といえるようなものも存在します。
支柱の高さが低く、左右が上部でつながっていない形を優先して おもに「あふれ防止板」がつくものをA江戸型変形と名付けます。

江戸型には「あふれ防止板」がないのですが、「あふれ防止板」は特に回転を上げた時でも水が左右にあふれ出さないという機能がありますので 効率化を求めた結果としての改良でしょう。



▲江戸型変形
 この写真のものは「あふれ防止板」の上端が斜めに切り落とされていますが 水平になっているものたくさんあります。
 これは兵庫県小野市好古館のものですが、このように上端を斜めに切り落としたものは三重県松坂周辺にも見ることができます。

C明治型変形
同じ折衷型で、支柱が高く、鳥居と呼ばれるように上部で左右が連結されている形の中で
底辺の横棒が左右に大きく張り出し 支柱を「ななめ棒」で支える構造のものを C明治型変形と呼びます。

重くなってでも、左右の安定と頑丈さを追求した改良でしょう。



▲明治型変形
 鳥居と呼ばれる高い支柱を持ちながら、広い底棒と斜めの支えを持つ。

D大阪型
基本構造は江戸型の短い支柱と「ななめ棒」を持ちますが、「鞘箱」の上部が優雅にカーブを描いたデザイン重視の様式。
江戸型をベースに明治以降に改良された様式です。
「摂津型」と呼ばれることもあるようです。
カーブを描いている分、左右の板の高さが増しているため、「あふれ防止板」の機能を持ちます。
重量的には無駄があり合理的ではなく、作るのも手間がかかりそうなのですが、このカーブが流麗で職人かたぎを感じさせます。



▲大阪型
 形の美しさでは日本一。

E九州型
鞘箱が水車軸を中心に大きく抜けた形状。軽量化を追及した合理的な改良です。
「筑後型」と呼ばれることもあります。

あふれ防止板はついていませんが 鞘箱の左右の板の上端が車軸より上にあるためあふれ防止板を兼ねています。
羽根車の外周がつながっているのも特徴です。

猪口萬右衛門(1739-1811)が発明したとの記述があり、萬右衛門の功績を讃える水車碑が福岡県大木町三八松にあります。
江戸型の発明後100年あまり後に改良を加えたと解釈できますので、おそらく彼はこのE九州型を創出したのでしょう。



http://itoshima-gp.bpes.kyushu-u.ac.jp/pamphlet/fumiguruma2011/111106fumiguruma1.pdf



写真はhttp://www.city.chikugo.lg.jp/kyoudo/_2425/_7133/_7648/_3052.html より

その他 細部の違いは
■九州型に見られる 車輪の外周がつながっているものは大阪型の一部にも見られますので、もう少しサンプル数を集めれば何か言えるかもしれません。



▲多くの踏車の羽根車先端はエッジになっているが、九州型、大阪型の一部のものの羽根先端は隣の羽根と連結している。
 強度的には有利だが、足で踏むときにじゃまになる。

■手回し水車
大型のもので足で踏んで使うものを「足踏み水車」
水車の直径が1.2m(4尺)以下の小型で 主に手で回して使うものを「手回し水車」と呼ぶようです。
サイズ、使い方による分類となるのですが、これもサンプル数が少なく 分布がまだよくわかりません。

それにしても 中腰で手で羽根車を長時間回すというのは たいへんな重労働ですよね。

■名称
名称は地域で異なっています。
大別すると 「踏車」か「水車」と呼ばれています。
「踏車」は「ふみぐるま」とも「とうしゃ」とも読みます。
「水車」は「すいしゃ」と読む地域と「みずぐるま」と読む地域があるようです。
 単に「クルマ」と読む地域もあります。
今はその分布はわかりませんが、何か法則性がありそうなので 次回の探索テーマとします。

分布

それぞれの様式の踏車を日本のどこの博物館で見たかを地図にプロットしてみました。
踏車は博物館の必須アイテムと言っていいくらい、多くの博物館で見ることができます。
これだけたくさんあると 「どこでもあるね」となり、新たな発見は一見なくなってしまうのですが、よくしたもので地域差を比べることができるようになります。
たくさんの博物化を見る必要はあるのですが、そうなると博物館に入ると踏車を探してしまい、あれば発見となり、なくても発見となり 博物館の楽しみの一つとなります。
博物館ベースで分布を見るというユニークな方法ではありますが、注意していただきたいのは・・・・
日本列島の中央部は私が多くの博物館を訪問している範囲で 東北、中国、四国、九州はまだ調査が進んでいません。
中央部は密度まで見ていただくことはできますが、それ以外の地域では未調査エリアなので 必ずしも踏車の密度が少ない地域とは限りません。
他から持ってきたものものも混入している可能性があるので誤差もあります。 たまたま残されたものを展示しているはずなので、また制作年は普通は記載されていないので時代軸は考慮できていません。

調査地域内であれば密度もわかります。
 岐阜県、愛知県が超集中地帯
 大阪府、兵庫県もけっこうな集中地帯 です。



次に気が付くことは踏車は平野部にしか分布していないことです。
愛知県や静岡県など海岸沿いの平野地域はどこの博物館に入ってもほとんど定番のように踏車の展示がありますが 長野県、山梨県など山間部は踏車の展示はほとんどありません。
これは山間部は水田よりも畑が多く、田があっても地面より高い位置から湧き水や沢など比較的容易に水が引けるためです。
それに対し平野は水路の水面が田の面より低く、近くに山地もないため自然流入する水路を作ることができず 人為的に水を引き上げる必要があるためでしょう。

日本全国に広く分布するのは赤で示した @江戸型 です。
特に密度が高いのは、東京都、千葉県西部、神奈川県の関東地方。
このまま埼玉、茨城も分布が広がっているように見えますがまだはっきりしません。今後の調査が楽しみです。

日本海沿岸も江戸型がほとんどです。
また兵庫県中部以西も多く分布していますが岡山以西がどうなっているか楽しみです。おそらく江戸型が分布していそうな想像ができます。
四国も江戸型が優勢となっているようです。

和歌山県は関西文化圏でありながら、江戸型が優勢です。これもちょっと意外。

瀬戸内海から日本海沿岸は「北前船」の航路にあたり、上方の文化が広く分布しています。
踏車も上方に分布しているD大阪型が瀬戸内海や日本海側に分布していてもよさそうなのですが そうなっていないのです。
このあたりにも何か秘密がかくされているかもしれません。

愛知県、岐阜県は圧倒的に B明治型が多い。集中してありますが、その範囲は狭いようです。
愛知県には 32台が保存されていますが うち明治時代型が 28台。
同様に岐阜県も多く 44台中全てが明治型となっています。

関東、関西の文化圏の境目は関ヶ原周辺ですが、B明治型もの有名な線を越えることには成功していないようです。
もう一つの文化圏の境界となっている 木曽川、長良川の巨大デルタ地帯は微妙に越えて三重県側にもB明治型の分布はつながっています。
しかしそこで勢いを無くして三重県の中央、南部地域では江戸型を基本とした様式に戻ってしまいます。

おもしろいのは静岡県の踏車。
静岡県は文化的には関東に属するのですが、踏車に関しては愛知県、岐阜県に多く見られるB明治型が優勢です。
しかし愛知、岐阜のB明治型とは微妙に異なり、C明治型変形、すなわ「やぐら」と呼ばれる上部がつながった縦棒に「ななめ棒」が付いたタイプが広がります。
純粋の江戸型も多く見ることができます。
いわば C明治型変形と江戸型が混在し、二重の混合の分布をしているのです。
中京圏で強い勢いを持っているB明治型が浜名湖を超えると急に勢いを失い、江戸型を中途半端に残しているような感じです。

またB明治型は千葉県銚子のあたりでも多く見ることができ不思議な飛び地となっています。

天竜川周辺と千葉県銚子、茨城県の両方に飛び地的に分布しているものがもう一つあり、古民家の様式「釜屋建て」。
不思議な共通点。黒潮文化などと呼ばれていますが、何か関係があるのかもしれません。

D大阪型は大阪府、兵庫県、京都府の一部で見ることができます。
地図で見ると比較的狭い地域に集中して見られます。
大阪と神戸にかけては市街化しほぼ一体となり、同一の文化圏で明確な地形上の境界は判別できませんが 踏車では明確な様式の差があります。

兵庫県も全体で見ると 江戸型に「あふれ防止板」が付いたA江戸型変形と典型的な@江戸型が混在しており、江戸型が優勢になっています。

岡山以西の中国地方では江戸型が分布している可能性が高いのですがまだ確認できていません。

九州はE九州型が広く分布しているようですが、まだ十分に調査が進んでいないので範囲等を断言できません。
鹿児島県には踏車はほとんど無いようです。

北海道での展示例は少ないのですが、少数あるものも明治以降に北海道開拓として米作とともに日本各地から持ち込まれたものが多いでしょうから分布調査という意味では意味が少ないでしょう。

東北地方も江戸型と明治型が混合して見られおもしろい分布となっていそうですが、サンプル数が少ないので まだ良くわかりません。
地元の方の情報をいただきたい。

同様に三重県も独自な形と混合の様子がユニークです。
松坂型ともいえる@江戸型に近いが独自の形態の踏車と なぜかE九州型に近い形を見ることができます。


これらの分布を見ると次のような仮説が浮かび上がってきます。

最初に@江戸型が普及しました。
それは 最も歴史が長いタイプであるので全国に広く分布しているのです。
効率が良く、構造も簡単で軽量の江戸型の踏車がまたたくまに普及し、龍骨車を駆逐しました。

次に改良がくわえられたのは九州地方。E九州型は軽量なので@江戸型の踏車を追い出し、九州で広がりました。
明治に入ると愛知県の尾張地方で誰かが改良を思いつき、構造的に丈夫で、幅が狭いことで運搬しやすく、狭い水路でも使いやすいB明治型を製品化しました。そしてその優れた特性により江戸型を圧倒し普及しました。
さすが機械に強く創造的な愛知県人です。
そしてまず、愛知県、岐阜県ではこのタイプが一般的な形となりました。
周辺地域でも明治型が優勢となったのですが、高価なものであったため古い江戸型も残り そのスピードはゆっくりでした。

同様に大坂周辺でも形が流麗なB大阪型が発明されて、関西人気質に合い流行しました。

大阪型の生産は大阪中心部のごく限定された地域の専門職だけだったのかもしれません。
江戸時代は踏車のようなかさばるものを運ぶのが大変だったので、それぞれの地元で作られたのでしょうが、 明治時代は特に大阪のような都市部では鉄道があったので、工場で作られた製品が運ばれて販売されたのかもしれません。

九州型も明治型も大阪型も周辺地域に広がる勢いはあったのですが 途中過程で新たな強敵の出現。
石油を動力とする発動機が現れ、それは圧倒的な効率という強い特徴を持っていたので非常に早いスピードで日本全国に広まりました。
急速に勢いを失った踏車の進歩はそこで止まってしまったのです。
改良の意欲や必要性も失い、その瞬間の様式が固定化されてしまったのです。
大規模に灌漑はできるが、重く、なによりも非常に高価なエンジンに対し、きめ細かい作業ができる踏車も初期のうちは共存できました。
効率や耐久性よりも運搬や設置の簡便さ、そして低価格という踏車の特徴により共存の時代が最近まで続いていました。

そしてエンジンはさらに低価格となり、やがて軽量化され、電気動力もそれに加わり、大正、昭和初期までには踏車は完全に命脈を絶たれてしまいました。
そして踏車はほぼ役割を終え、昭和30年代には踏車は完全に姿を消し、博物館でのみ見ることができる古道具になってしまいました。

追記
速報として、その後岡山県のほぼ全ての博物館を見たのですが、岡山県には江戸型と九州形が併存しています。四国瀬戸内海側にも九州形を見ることができます。
だとすると九州形は広く中国地方、四国地方にも分布しその東限が岡山県ということになるのかもしれません。山口県、広島県の調査が必要ですがちょっと楽しみ。改めて記述します。

びっくり博物館

愛知県、岐阜県南部、静岡県に代表される東海地方ではどこの博物館に入ってもあたりまえのように踏車の展示を見ることができます。
でも展示されているのは1台か2台。
一方で 一つの博物館で大量の踏車を見ることができる博物館が2つあります。

■鴻池新田会所  大阪府東大阪市

鴻池新田会所は、江戸時代に豪商鴻池家が開発した新田の管理・運営をおこなった施設です。
鴻池新田というのは かつて大阪市で淀川に合流していた大和川をその手前で流路を変え 堺で海に注ぐようにした「大和川付け替え工事」で川の跡に新たに造られた土地を新田開発しようとした場所。
旧河道とはいっても大和川が天井川になっていたので土地が周辺の土地よりもやや高く灌漑には踏車が必要とされました。
会所というので公共性がある建物だったので、共有物として踏車が保管されていたのでしょう。



▲鴻池新田会所の道具蔵には踏車がずらーと並ぶ。

■和歌山県立紀伊風土記の丘  和歌山県和歌山市

和歌山市は大阪からも近く、雑賀衆(さいかしゅう)の本拠地、古くから栄えた豊かな土地。
紀ノ川の河口デルタで平野部も大きく農業が盛んという踏車が要求される素地もあります。納得。
紀州といえば江戸時代の土木設計集団「紀州流」の地元であり、土木工事で踏車も多く使われた背景でもあるのでしょう。
踏車が必要とされる水路網や治水要求がたくさんあったので、土木が発達したのかもしれません。



▲このように踏車がずらーと並ぶ光景は ちょっとびっくりですね。

最後に

ほら、こんな目で博物館の踏車を見てみるとおもしろそうでしょう?
時代と地域の2軸で 形に微妙な差があるのです。
機能だけではなく、美意識、職人のこだわりによっても差が生まれます。
たくさんの踏車を見て その差を楽しみましょう。

江戸時代中期は 江戸文化が花開き時代劇に見られるような爛熟した時期で さまざまな文化の変化点となっています。
その豊かな世界をつくったのは農業の生産性が高まったからで、踏車が普及したことがそれを支えたのです。
踏車だけがすべての変化を作ったわけではありませんが、一つの発明が他の発明を触発したことは西洋の産業革命を思い起こさせます。
農具が変わってゆく。農業の生産が高まることで、商人たちが豊かになり、生活が変わってゆく。そして社会全体が変わってゆく。そんな時代の流れも見えてきます。

結果的にはすべては石油動力に置き換わってしまいましたが、その過程の中で 発明、技術が世の中を変えてゆく。
力のある技術がそうでないものを駆逐する。そんな動きは常にあるのですが、その過程の瞬間が凍結されたように残っているというのは珍しい例かもしれません。

人間の力だけでも何倍も効率を高めることができる。
そう、自転車のように「人間の力だけ」にこだわり 効率を高めることで何倍もの仕事を行なう。そんな技術なんでしょう。
技術にはそのようなことができるのです。

まだまだ ちょっとわかっただけで謎の方がたくさんあります。
・中国や韓国で踏車の末裔は見ることができるのか?
・東北の様式の分布がわかると 技術伝播の流れがもう少しわかりそうな・・・。
・細部の形の違いが技術史を雄弁に語っているということがもっとありそうで・・。

単純な農具なのですがなかなか奥が深そうです。
2014年3月23日 清水 健一

参考文献、HP

東海地方に保存の竜骨車・踏車と手回し水車(石川 勝也・石川 恭子 )
西宮市郷土資料館ニュース 1990年7月
江戸時代中期に登場した人力揚水機「踏車」に関する研究
http://www2.city.minoh.osaka.jp/WATER/Topics.htm
http://www.wakuwaku.gr.jp/sakudaira/suisha/suisha_enkaku.htm
http://bigai.world.coocan.jp/msand/powder/kanzeonji.html http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=2049
http://kotobank.jp/word/%E7%A2%BE%E7%A3%91


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