「おまんと」と「棒の手」

尾張、西三河では多くの地域で「おまんと」と「棒の手」が現代にいたるまで連綿と続いています。
愛知県の代表的な祭礼なので民俗学的に語りつくされた感はありますが、勉強のためにもう一度整理してみます。
実際に今でも熱中して活動しておられる方も大勢いると思いますので、間違いがあればぜひご指摘ください。

おまんと

「馬の塔」とは
標具(だし)と呼ばれる札や御幣をたてて、豪華な馬具で飾った馬を寺社へ奉納するものです。
尾張、西三河の代表的な祭りで、似た形態のものが愛知県各地で伝わっています。

名 称
「おまんと」、「おまんとう」と呼ばれていますが、これは馬を扱った馬頭人から来た言葉のようです。
警固祭り 馬の塔には警固(警護)の隊列が従うことがほとんどなので、これらの祭りを「警護祭り」とも呼びました。
一宮では桃花祭の一部となっていますので、各地で名前は異なるのでしょう。

 

▲馬にこのような派手な飾りを付けて、寺社へ奉納します。
 神事なので、これにしきたりで決められた隊列がつき、秩序だった手順で行動されます。

分布


愛知県内での「馬の塔」祭礼が行われてた場所
「馬の塔と棒の手」名古屋市博物館編より

継続的に馬の塔が出されていたと考えられる地域は、愛知県内で約200箇所あります。
これ以外にも遷宮祭や臨時の祈願など1回きりの馬の塔がひかれた所は数多いと考えられています。
ところが近年では馬の数が減り、後継者も減ってきたことから、愛知県文化財報告書第55集(平成元年3月31日発行)によりると、現在、愛知県内28箇所でしか行われていないようです。

形態
1 「だし馬オマント」:駆馬を行わずに標具(ダシ)で飾り立てた馬を奉納するもので、囃子を伴う行列をなす形が多いもの。
2 「駆馬オマント」:駆馬を奉納神事として多数の馬の行列後、駆馬が行れることが多いもの。
3 「警固オマント」:神馬を警固する「棒の手」を伴うもの。
以上の3種にわけることができます。



▲奉納先、形態等によりこのようなグループに分類されます。

いつごろから?
明応2年(1493)の献馬の記録が豊田市宮口の猿投山記録が最古のようです。
中世末から近世初頭にかけて、合宿が作られ馬の塔が形作られてきました。

ルーツは?
馬の塔の発祥については多くの説があります。

・年占(としうら)としての競馬から発生したという説
天野信景の「塩尻」の中で、熱田の馬の塔は競馬の式からきており、馬場の名も残っていると書いている。熱田神宮の馬の塔が行われた5月5日という日付から見ても、年占としての競馬・馬駆けとの関連は考えられるところである。

・大須観音や甚目寺などの縁日にあたる5月18日に馬を曳いて観音詣でをした。そのほかにも観音堂へ馬の塔を出した例は多い。
このことから、観音信仰との関連とする説。

・農民にとって最も切実な降雨祈願の成就に対するお礼の意味を込めて、神の霊が宿ると考えられる馬を献じたという説。
大森合宿ではその起源を、元禄年中に、降雨を得たお礼としている。

合宿とは?
西三河、すなわち上の分布図で右半分の地域では各地の「馬の塔」祭礼が連合し、大規模に行われます。
数十ヶ村が連合して特定の寺社へ献納する祭礼のグループのことです。



▲各村々の馬の塔祭礼が連合し、特定の寺社に集まります。

読み方は「がっしゅく」、「かしく」、「がっしょく」などと発音し各地で異なっているようです。

おおむね行政区の市町村単位のグループですが、県をまたいで岐阜県からも献納されていました。
合宿の発生はよくわかっていませんが、秩序だった奉納を図るための自然発生的なものだったのでしょう。

合宿は毎年の祭礼ではなく凶年の年を除き、豊年かそれに近い年に行われました。10年に1度という頻度になっていたときもあるようです。
現在では「馬の塔」祭礼自体が衰退してしまったので、連合も組めず、名前だけが残されているのではないでしょうか。

中心となる寺社は?
非常に数が限られております。主なものは
熱田神宮
龍泉寺
猿投神社

他には尾張四観音と呼ばれる次の4寺があります。
 大須観音(真言宗 中区)、甚目寺(真言宗 甚目寺町)、荒子観音(天台宗 中川区)笠寺観音(真言宗 南区)

合宿(合属)のグループ
熱田神宮
 井戸田合属
 高田合属

龍泉寺
 篠木合属
 吉根合属
 大森合属

猿投神社
 山口合宿 (北尾張合属)
 米野木合宿 (南尾張合属)
 宮口合属
 四郷合属
 高岡合属
 小原合属
 東美濃合属
 広沢合属
 寺部合属
 川通合属
 山下合属
県下で最大の合宿で、最盛期には尾張、三河、美濃の3ヶ国から合わせて、186ヶ村が11の合宿を組織して参加していました。

どのように連合するのか?
中心となる村が作物収穫量を見ながら発議した。しきたりどおりの回章(回状)をつくり、合宿内の村を順に回す。各村では全員で協議の上、発議村に返事を出しました。
しかしながら、祭礼は費用がかかるうえ、ライバル意識の強い村民の合意を得るのはたいへんだったようで、回答をわざと遅らせ、発議村の気をもませたという話も残っています。

祭りの当日になると、各村がいったん中心の村に集まり、そこから秩序だった順で奉納寺社に向かいます。途中では掛け声をかけての行列で、所々で合図の火縄銃が発砲され、寺境内に入ると しきたりにのっとり式が行われ、地域によっては棒の手を奉納し、馬は連れて帰ります。帰りは行列の順番が逆になり、「駆け別れ」といって走りながら別れました。

警固隊とは?
献馬にさまざまな武具で武装した警固の一団が整然たる行列をなしてつき従います。
警護隊の持つ武器は、棒の手の演技の際にも用いられるもので、棒、槍、薙刀、長柄鎌、刀、木刀などバラエティーに富んだものです。

火縄銃や真剣も持たれました。構成員は農民であり、よく武士の支配階級が許したと思うのですが、祭礼というたてまえに守られて藩にとっての「予備兵力」という意味があったのかもしれません。

行列の構成
地域によりかなり差があると思いますが、ここでは猿投の代表的な例をあげます。



 

祭りの当日は、法螺貝がならされ、要所要所で空砲が発砲されるなか、「ホッサイ、ホッサイ」(豊作からきた言葉と言われる)のかけ声とともに、武具を掲げての勇ましい行進が行われます。
1.八鎮(はっちん)
 八方のもめごとをしずめる、という意味からきたようです。八鎮は境内の警備の責任者で隊列が寺社に入る許可を与え、寺社内では八鎮が案内します。
▼八鎮の衣装 渋い色調に鎮の白抜きの文字の法被


2.大先(おおさき)
▼合宿の代表者です。


3.掛合役(かけあいやく)
合宿どうしや祭礼役職との交渉役

4.鉄砲隊(てっぽうたい)
▼火縄銃の一団
 

5.子供連(こどもれん)


6.中割(なかわり)
4名ないし8名で行列の各所に分散して入り、 隊列の組み立ての配慮、指導を行う
棒の手演技の進行を行う
▼浅葱色(あさぎいろ:明るい青)の股引に着物を着て風切(胸当て)をつけています。その上に紋付の羽織を着て、手には扇と鞭を持ちます。


7.杖つき、老連
50歳以上の老人たちで行列に重みを加える

8.若連(わかれん)


9.中老
おおむね30歳以上50歳までの一団

10.飾り馬と馬つき
 標具(だし)を背にした飾り馬。いわば行列の主人公
▼馬つき 馬の手綱をとり、馬をコントロールする役で、4名います。
 以前の衣装では「縄」という文字がデザイン化されています。
 

11.おさえ鎌
中老の中の屈強な者がこれにあたる。
飾り馬の行列の万一の混乱にそなえてその警固にあたる。

本馬と俄馬(にわかうま)
特に熱田神宮のものは2種類の馬の塔がありましたが、各村でも公式のものと、村内だけの飾りと2種類があったようです。
馬の塔には本馬と俄馬(にわかうま)があり、本馬は村を代表するものとして定められ、格の高いもので、村印を先頭とし、棒の手や薙刀の行列に飾り馬が続きました。
俄馬はその折々に工夫をこらしたもののようです。裸馬に荒薦(あらごも)を巻き、剣祓をつけたもので、御幣や馬簾の標具がよく用いられました。端午の走り馬に似ていたと思われます。
いずれも縮緬(ちりめん)や錦の衣装を揃え、行列に趣向を凝らして多くの観衆を集めました。

各寺社と馬の塔、棒の手
●龍泉寺
守山区吉根にある龍泉寺(天台宗)は熱田神宮の奥の院ともいわれ、馬頭観音を本尊としています。
伝教(でんぎょう)大師が池から出現した馬頭観音を祀ったという伝承があり、尾張四観音に数えられます。明治初期まで、棒の手奉納が盛んでしたが、現在は行われていません。
もとは5月18日に馬の塔が行われていましたが、明治以降10月18日になりました。
篠木庄33箇村(現春日井市)からなる篠木合宿はもともと熱田神宮に献馬していましたが、永禄年中(1560頃)以降龍泉寺へ変更しました。

●熱田神宮
 名古屋市熱田区に鎮座。主神は草薙剣を神体とする熱田大神で、古来公武の崇敬があつかった。
棒の手発祥の地を言われ、近世までは盛大に奉納されていましたが、現在では、春の豊年祭りと夏の熱田祭りのときだけ行われています。
熱田神宮へは5月5日に端午の走り馬といって近郷の馬を曳き走らせていました。
江戸時代にはこの日に多くの馬の塔が出ました。
雨乞いや祈願成就のお礼にも馬の塔が出たことが伝わっています。

●猿投神社
景行・垂仁の両天皇、大碓尊の三柱を祭神とする西三河最大の神社。三河国三ノ宮で、古来武門の尊崇があつい。
三国祭りと称されるほどの隆盛を誇った棒の手も明治末期頃から衰えたが、戦後復活し、現在は最も盛んな地域となっています。

●尾張四観音
大須観音、甚目寺、へは5月18日に名古屋城下の町から多くの馬の塔が出ました。
衣装を揃え、趣向を凝らした作り物や踊りが行列に加わりました。いわば都市の祭礼として江戸時代を通して城下の人気を集め、歴代の城主もこれを見物しました。

甚目寺(真言宗 甚目寺町)の馬の塔は、天正5(1577)年に塩屋治平の下人が田植後5月18日に馬を駆けさせたのが始めという(『渉猟雑抄』)。これによれば馬の塔は田植え後の村の休日(ノアガリ)の行事として始められたとも考えられます。

荒子観音(天台宗 中川区)
明治時代の初めまで5月18日に高畑村(現中川区)はじめ愛知郡西部の各村から献馬があった。荒子村(現中川区)の上中脇では前田利家から馬道具を授与されたことがあるといわれています。

笠寺観音(真言宗一現南区)
大正時代の初めまで5月18日に笠寺村(現南区)の7つの組から馬の塔が出た。これらの寺院は密教系であり、観音の縁日とされる5月18日に馬の塔が出たことは注目されます。

棒の手

棒の手は農民による武術で寺社への奉納として発達しました。
地域にもよりますが、馬の塔の奉納時の式典で寺社において、組み手が披露されました。



▲現在各地に残る棒の手の分布
この他にも棒の手の道具が展示されている博物館は多いことからみると、昔は非常に多くの地域で棒の手が伝えられていたのでしょう。

「馬の塔と棒の手」名古屋市博物館編より

ルーツは?
棒の手の起源は定かではありませんが、農民の自衛の武術が、五穀豊穣祈願のための奉納演技に変質していったのであろうと考えられます。
それに伴って、それぞれの地域ごとに、特徴のある演技の型が形成されてゆき、それがさまざまな流派として発展していったのでしょう。

いつから?
棒の手の歴史の詳しいことはわかっていませんが、武家の奉公人や庶民の間で行われていたようです。
各流派の伝承では戦国時代にその源を伝えていますが、はっきりはしません。
古くから神社や寺の節句祭りに奉納される献馬(馬の塔ともいう)を警固し、棒の手が奉納されていたことがわかっています。

棒の手の訓練
 かつての棒の手は若者組みなどと呼ばれた青年組織により受け継がれてきました。男子は小学校卒業から16歳頃までの一定の年齢に達すると、青年会などの組織に入り、棒の手の練習を始めました。中でも巻物の伝授を受けようとする者は、師匠の元へ弟子入りの誓文血判を出して弟子となった。そして、ツキロクサイ(月六斉)といって、月に6度練習日を決めて通ったところもあり、厳しい練習が行われました。

免 許
3年あるいは6年目にして年齢、技量、人格が備わって初めて奥義の口伝と、免許目録である免許皆伝の巻物を授与されました。
巻物の受け継ぎは師匠の家で厳粛に行われた。深夜、師匠の家に声などもれないように目張りをし、巻物を授けたのち、口伝で奥義を伝えたと言われます。



▲免許皆伝の巻物

このようにして巻物と口伝を受け継ぐと「巻取衆」と呼ばれ、次の代の師匠となります。

巻物の扱い
この巻物は門外不出とされ、時には寺社や堂宇に奉納されました。
一方では畏怖の対象となりみだりに見ると罰があたるとか、眼が潰れるとも言われました。

棒の手をささえる組織
棒の手は、戦中戦後に一時衰退しましたが、昭和30年頃から各地で保存会が組織され氏子祭礼、馬の塔などの行事とともに受け継がれてきています。

棒の手の道具
棒の手の基本は棒にあるとされ、棒からならいはじめました。
港区善進町では16〜18歳は棒で、19歳から「キレモノ」と呼ばれた槍や薙刀を習いました。
演技は定型的な短い動作の「手」(型)が基本で、手をいくつも組み合わせてひとつの種目とします。
「棒」のみが「表」、槍、鎌などの「キレモノ」を用いるのが「裏」とされます。 「キレモノ」が使われるようになったのは意外と新しく江戸時代末期からです。

奉納は身を清めて
奉納するものは心身を清潔にしなければならなかった。
それだけではなく「火を食う」といって、1〜2週間は別火の生活を送りました。
水にもいったん火を付けたマッチなどを入れて消して清めました。
奉納の場所は塩で清めたり、汚れや邪気を祓う呪法を行いました。



▲奉納を行う場所を清める塩を盛る器

棒の手の流派
棒の手の流派はかつては尾張、三河、美濃一帯に数十種類あったといわれ、現在も十種類以上の流派が伝承されています。
これらの流派は著名な武家、あるいは武士を伝承上の開創者としている場合が多い。

愛知県には10以上の流派が伝えられています。
・鎌田流(かまだりゅう)
・起倒流(きとうりゅう)
・見当流(けんとうりゅう)
・直師夢想東軍流(ちょくしむそうとうぐんりゅう)
・東軍流(とうぐんりゅう)
・神影流・真影流(しんかげりゅう)
・源氏天流(げんじてんりゅう)
・直心我流(じきしんがりゅう)
・無二流(むにりゅう)
・検藤流(けんとうりゅう)
・藤牧検藤流(ふじまきけんとうりゅう)
・鷹の羽検藤流(たかのはけんとうりゅう)
・式部流(しきぶりゅう)
・渚流
・見当高羽流
・関生高羽検当藤牧流
・夢想流

それぞれの流派の詳細については どうもはっきりしないのでもう少し勉強してからまとめます。


▲深田佐兵満孫(ふかださひょうみつまご)三河地方における鎌田流の開祖といわれる。

愛知県、岐阜県に残る棒の手保存会

現在、37箇所で「棒の手」が残されています。
1.
江南市安良棒の手保存会真影流
2.
小牧市野口棒の手保存会源氏天流
3.
春日井市木附町棒の手保存会検藤流
4.
春日井市玉野郷土芸能保存会真陰流
5.
春日井市下大留郷土芸能保存会東軍流
6.
春日井市小木田源氏天流棒の手保存会源氏天流
7.
名古屋市大森検藤流棒の手保存会検藤流
8.
名古屋市川村源氏天流棒の手保存会源氏天流・検藤流
9.
名古屋市鍋屋上野町源氏天流棒の手保存会源氏天流
10.
名古屋市鷹羽検藤流棒の手保存会鷹羽検藤流
11.
名古屋市瑞穂区下山町
12.
名古屋市中根見当流棒の手保存会見当流
13.
名古屋市神影流桜棒の手保存会神影流
14.
名古屋市善進町真影流棒の手保存会真影流
15.
弥富町境棒の手保存会渚 流
16.
南知多市内海馬場地区
17.
南知多市内海北脇地区
18.
瀬戸市本地地区起倒流
19.
尾張旭市無二流棒の手保存会無二流
20.
尾張旭市検藤流棒の手保存会検藤流
21.
尾張旭市直心我流棒の手保存会検藤流
22.
尾張旭市直師夢想東軍流棒の手保存会直師夢想東軍流
23.
長久手町長久手棒の手保存会起倒流・見当流・鷹羽検藤流・藤牧検藤流
24.
日進市三本木地区検藤流
25.
日進市折戸地区見当流・起倒流
26.
東郷町諸輪古典芸能保存会見当高羽流・関生高羽検当藤牧流
27.
豊明市上高根棒の手保存会夢想流
28.
豊田市藤岡町藤岡町棒の手保存会見当流・鎌田流・検藤流・藤牧検藤流
29.
豊田市旭町旭町棒の手保存会起倒流・藤牧検藤流
30.
設楽町貝津田諏訪神社棒の手保存会起倒流
31.
豊田市足助町足助棒の手保存会見当流・鎌田流
32.
豊田市鎌田流宮口棒の手保存会鎌田流
33.
豊田市松平町棒の手保存会起倒流
34.
豊田市猿投町棒の手保存会鎌田流・見当流・起倒流・藤牧検藤流・鷹羽検藤流
35.
安城市桜井町棒の手保存会式部流
36.
西尾市田貫町棒の手保存会鎌田流
37.
岐阜県多治見市小木地区無二流
この他にも以下の地区の記述があります。(詳細不明)
38.
豊田市伊保地区起倒流
39.
豊田市四郷地区鎌田流・藤牧検藤流・見当流
40.
豊田市挙母地区鎌田流
40.
豊田市押沢・松嶺地区鎌田流
41.
豊田市藤沢地区鎌田流
42.
豊田市中切地区藤牧検藤流
43.
豊田市山中地区鎌田流


「馬の塔」「棒の手」を愛知県で最も系統的に展示しているのは豊田市棒の手会館です。
参考資料
http://www.kasugai.ed.jp/sanno-e/%E6%A0%A1%E5%8C%BA%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E9%A6%AC%E4%B9%8B%E5%A1%94.htm
「馬の塔と棒の手」名古屋市博物館編
http://www.city.okazaki.aichi.jp/museum/db/arcadia/arcadia3/ar00303.htm
愛知の馬の塔と棒の手沿革誌 愛知県棒の手保存連合会編
http://www.nona.dti.ne.jp/~atago-mt/index.html
http://www.geocities.jp/tougunryu/frame-h.html
2009年1月12日 清水 健一

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