高札


■高札とは

高札とは制札ともいい、「こうさつ」とも「たかふだ」とも読みます。
徳川幕府が農民や商人を取り締まる基本的なきまりを公示したものです。

江戸幕府は村々に命じ、路傍の一定場所に法度や掟書を記した板札を建てさせた。
奈良時代末期からあったと言うが江戸時代に最盛期を迎えた。
内容は、親孝行・博奕の禁止・忠孝の奨励・精勤・賛沢の禁止など、町人や農民の生活の規範とするもの、キリシタン、鉄砲、徒党の禁止、新田開発の奨励など多岐にわたった。

基本的なものは正徳元年(1711)に出された 親子兄弟札、毒薬札、キリシタン札、火付札、駄賃札などです。

高札による法令掲示は奈良朝末期よりみられました。 寛政元年(1661)6月に幕府により5枚の高札が発布され 以後 延宝2年(1674)2月 5枚 天和2年(1682)5月 5枚 正徳元年(1711)5月 5枚 が発布されています。 江戸時代の初期は老中の交替、年号の変わるたびに改訂が行われました。 しかし正徳元年(1711)8代将軍吉宗による改訂が行われた後は 駄賃札は物価の上昇とともに差し替えられましたが、他の4枚は幕末まで改められず、そのまま使われました。 したがって正徳元年(1711)のものが代表的なものとされています。 明治政府も高札を使いましたが、大量の通達を周知させるのは無理があったので、明治6年2月に原則撤去が指示されました。

■高札の構成

板としての構成は
平板に雨を防ぐための屋根がつけられています。
屋根は一般的には文字通り屋根の形になっているものと、直線的なものも見ることができます。
掲示のための「吊るし金具」、裏には補強のために「裏木」がつけられているものもあります。

文面は
表題、本文、年月日、発行主体で構成されています。

表題は「定」と「覚」と2種類のものがあります。
「定」は永年掲示
「覚」は暫定的な掲示とされています。

発行主体は後述するように主に「奉行」と「太政官」があります。

もうひとつ、高札の中にはこのように発行主体の後にさらに一文あるものがあります。



これは「明治政府から以上のように法令が出たため、きちんと守るように」という内容で
最後にその地域を統治したものの名前がつきます。

奉行と記された江戸幕府のものは大名の名前が、
太政官と記された明治政府が発行したものは「県」の名前が記されています。

高札場

高札は道が交差した人の往来の多いところに、人に目立つように一段高くした「高札場」に掲示されました。

幕府の権威を示すように 石垣や土盛の上に建てられ、柵がつけられ、矢来で囲むこともありました。
その管理責任は藩に命じ、村人に決まりをきびしく守らせ、付近の掃除や手入れもさせた。
文字の読めない人のため、村人に読み聞かせるのも名主など村役人の仕事でもありました。
民衆にとってみれば、高札場は幕府の権威そのものだったため、恐れるべき存在としてアンタッチャブルだったのでしょう。
今でも博物館に高札が残されているのは捨てることなどできなかったからです。

また高札場は距離を表示するときの原点にもされ、集落という単位を表し、住人たちのまとまりの象徴でもあったのでしょう。



▲池鯉鮒宿(ちりふじゅく)の高札場は宿場の中央、御殿前に一ヶ所設けられていました。
 1843年(天保14年)の高札場の規模は巾6.71m、奥行き1.82m、高さ3.03mで瓦屋根がついていました。



▲豊橋市二川本陣に復元された高札場。
 ちょっと観光的な復元のようにも見えます。



▲大井宿(岐阜県)に復元された高札場
 中山道沿いの小さな宿場です。この高札場は原寸の3/4のサイズだそうです。



▲奈良井宿(長野県)に復元された高札場
 中山道沿い。この高札場は原寸サイズ。

高札場の実物は愛知県には残されていません

■実物が残る高札場

復元はたくさんあるのですが、実物は意外と残されていません。

●東京都府中市の高札場

 

甲州街道沿いの高札場
府中駅の近くにあるのですがあまりにも地味なので気がつかない人も多いのでは?
かつては甲州街道と平行して建てられていたが、自動車に衝突されてから交差点の角に斜めになるように移動されています。

●有旅の高札場



うたびのこうさつば
長野市篠ノ井有旅1608
松代藩により設置された。
この高札場はかなり小型です。集落も街道も小さいためでしょう。

●田光の高札場
三重県菰野町多比鹿神社に残る。
http://www2.town.komono.mie.jp/www/contents/1001000000290/index.html

●黒木の高札場
岡山県井原市



■2種類の高札

博物館に展示されている高札は 大きく2つに分類できます。
江戸時代から明治初期にかけて掲示された比較的新しいものと
それまでに掲示されていた江戸幕府による古い高札です。

末尾に「太政官」と書いてあれば前者ですし、「奉行」と買いてあれば後者です。

まずは明治新政府による高札から

■五箇条のご誓文

 (半田市博物館)

一、 広く会議を興し、万機公論に決すべし
一、 上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし
一、 官武一途庶民に至るまで各その志を遂げ、
     人心をして倦まざらしめんことを要す
一、 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし
一、 知識を世界に求め、大いに皇紀を振起すべし

慶応4年3月14日 太政官

五箇条の御誓文とは
新政府が(慶応4年、明治元年(1868年)3月14日に、新政府の政治方針として「五箇条の御誓文」を公布し、
明治天皇は京都御所紫宸殿に公卿・諸侯以下百余名を集め、天地の神々に誓うという形式で維新の基本方針を明らかにしたものです。

五箇条の御誓文がこうして高札として発布されたものであるとは、私は半田市の博物館で見るまで知りませんでした。
他の博物館で類似のものは見たことがありませんので、珍しいものかもしれません。

■五傍の掲示

成立間もない明治新政府は慶応4年3月15日(新暦4月7日:1868年)五傍の掲示によって5つの布告をし、 高札の代表的なものに、「五榜の掲示」 (ごぼうのけいじ)と呼ばれるものがあります。
1868年(明治1)3月五カ条御誓文とともに同時に出された太政官の掲示です。
明治新政府は旧幕府の高札を撤去し、その代わりに立てることを命じました。

三枚は「定三札」といわれるもので、永年掲示とされました。
第一札は人として「五倫の道(儒教における五つの基本的な人間関係)」を正しくすることや殺人・放火・盗みなどの禁止
第二札は徒党・強訴・逃散の禁止、つまり集団の力を利用して事を起すことの禁止
第三札はキリスト教の禁止を命じています。

二札は「覚札」と呼ばれるもので、「沙汰有るまで掲示」とされた一時的掲示です。
第四札は万国公法に従うこと、外国人への加害の禁止
第五札は郷村脱走(浮浪)の禁止

江戸時代以前から広く庶民に法令を伝達してきた高札も、伝達手段の整備や印刷技術の向上などにより、この「五榜の掲示」を最後に明治6年2月24日をもって撤廃されました。

新政府の役職である太政官は慶応4年3月に任命されました。

明治と改元されたのは、慶応4年=明治元年 九月八日のことです。

諸国ノ高札是迄ノ分一切ヲ取除ケイタシ別紙ノ条々ヲ改テ掲示被仰付候
自然風雨ノタメ字章等塗滅候節ハ速ニ調替可申事
但定三札ハ永年掲示被仰付候
覚札ノ儀ハ時々ノ御布令ニ付追テ取除ノ御沙汰可有之尚御布令ノ儀有之候節ハ
覚札ヲ以掲示可被仰付候ニ付速ニ相掲偏境ニ到ルマテ朝廷御沙汰筋ノ儀拝承候様可被相心得候事
追テ王政御一新後掲示ニ相成候分ハ定三札ノ後ヘ当分掲示致置可申候事

三月

第一札 「五倫の道」

 小浜市郷土民芸館(福井県)


一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事
一 鰥寡孤独癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事
慶応四年三月

第二札「徒党の禁止」

 設楽町郷土館
▲徒党札と呼ばれる高札

 定
 何事によらず、宜しからざる事に
 大勢申合候(もうしあわせそうろう)を徒党と唱へ、
 徒党して強いて願がひ事企だつるを強訴と言ひ或は申合せ居町居村を立退き候を逃散(ちょうさん)と申す。
 堅く御法度たり。
 若(もし)右類の儀これあらば早々其筋の役所へ申出べし。
 御褒美下さるべく事

慶応四年三月  太政官

稲武町郷土資料館ちゅーま にも実物が展示されています。

第三札 「切支丹禁止」

新政府は初期の段階では切支丹を引き続き禁制としました。
以下の2つのバリエーションがあるようです。

 磐田市竜洋郷土資料館
▲キリシタン禁止の高札


一 切支丹邪宗門ノ儀ハ堅ク御制禁タリ
若不審ナル者有之ハ其筋ノ役所ヘ可申出御褒美可被下事
慶応四年三月  太政官

 設楽町郷土館

 東氏記念館 岐阜県
▲切支丹禁止の高札
 定
 一 切支丹宗門の儀は是迄御制禁のとおり通固くあいまもるべきこと可相守事
 一 邪宗門の儀は固く禁止の事

 慶応四年三月  太政官
 右之趣堅可相守者也
 額田県

 額田県は明治4年から11年の間存在しました。

第四札 「外国人に危害を加えることの禁止」

 東氏記念館 岐阜県

 稲武町郷土資料館ちゅーま

▲第四札


今般 王政御一新ニ付 朝廷ノ御条理ヲ追ヒ外国御交際ノ儀被 仰出諸事於 
朝廷直ニ御取扱被為成万国ノ公法ヲ以条約御履行被為在候ニ付テハ全国ノ人民 
叡旨ヲ奉戴シ心得違無之様被 仰付候自今以後猥リニ外国人ヲ殺害シ或ハ不心得ノ所業等イタシ候モノハ 
朝命ニ悖リ御国難ヲ醸成シ候而已ナラス一旦 御交際被 仰出候各国ニ対シ 
皇国ノ御威信モ不相立次第甚以不届至極ノ儀ニ付其罪ノ軽重ニ随ヒ士列ノモノト雖モ削士籍到当ノ典刑ニ被処候
条銘々奉 朝命猥ニ暴行ノ所業無之様被 仰出候事

三月  太政官

第五札 「王政復古」「士民の本国脱走の禁止」

 羽咋市歴史民俗資料館

 東氏記念館 岐阜県

王政御一新ニ付テハ速ニ天下御平定万民安堵ニ至リ諸民其所ヲ得候様
御煩慮被為 在候ニ付此折柄天下浮浪ノ者有之候様ニテハ不相済自然今日ノ形勢ヲ窺ヒ
猥ニ士民トモ本国ヲ脱走イタシ候儀堅ク被差留候万一脱国ノ者有之不埓ノ所業イタシ候節ハ主宰ノ者落度タルヘク候尤此御時節ニ付無上下 
皇国ノ御為又ハ主家ノ為筋等存込建言イタシ候者ハ言路ヲ開キ公生ノ心ヲ以テ其趣旨ヲ尽サセ依願太政官代ヘモ可申出被仰出候事
但今後総テ士奉公人不及申農商奉公人ニ至ル迄相抱候節ハ出処篤ト相糺シ可申自然脱走ノ者相抱ヘ不埓出来御厄害ニ立至リ候節ハ其主人ノ落度タルヘク候事
三月  太政官

追加された明治の高札

幕末から明治維新にかけ、浪人札など数枚が加わりました。

 設楽町郷土館

 UFJ銀行貨幣資料館

▲火付高札
火付 盗賊 人殺 或は贋金札を作候者等 見付次第 早速其最寄之役所へ召捕へ差出し
又は訴出可申候 吟味之上 相違無之候はば 御褒美可被下候事

但 召捕候節手疵を負ひ又は即死等之者へは厚く御扶助可被下候
訴人致し候者 引合之為の役所江 被召出候節は 職業向迷惑不相成様
相恵御手当可被下候間可
申立候 若し 隠置後日他より相顕はるるに於いては曲事たるへく候事

明治3年12月    太政官
右之趣堅可相守者也
             愛知県

 火付 盗賊 人殺し 贋金づくりをしたものを見つけた場合は、捕らえて近くの役所へ差し出すか、訴え出ること。
取り調べて事実であったら褒美をくださる。
また捕らえるときに怪我をしたり死者が出たらお救い金をくださる。
訴え出たものが取り調べのために役所へ呼び出されたときはそれ相応の手当てをくださるので、ありのままを話すこと。
もし隠しておいて後日よそから判明したら罪になる
太政官

江戸時代の高札

江戸時代の高札は明治時代の高札と異なり、同種、同年の高札でも、文章が微妙に異なったりしています。

■キリシタンの密告を求める高札

博物館の展示で圧倒的に多いのがこの高札です。
キリスト教の禁制という 大きな社会的背景があるからでしょう。

五傍の掲示のキリスト教禁止と異なるのは、賞金が付いている点です。

 設楽町郷土館

 藤川宿資料館

 一宮市博物館

 渥美郷土資料館

 刈谷市郷土資料館

 知立市博物館 複製

 定
 きリしたん宗門は累年御禁制たり 自然不審成ものこれあらば申出べし
 御ほうびとして
  ばてれんの訴人    銀五百枚
  いるまんの訴人    銀三百枚
  立かへり者の訴人   同 断
  同宿并宗門の訴人   銀百枚
 右の通下さるべし
 たとひ同宿宗門の内たりといふとも 申出る品により銀五百枚下さるべし
 かくし置他所よりあらはるゝにおゐては 其所の名主并五人組迄 一類は可被行罪科候也
 正徳元年五月日    奉行

(現代語訳)
キリスト教は従来から禁止されている。
何か不審な者がいるならば通報せよ。
御褒美として、
「ばてれん」(伴天連=司祭)を訴えた者には銀500枚、
「いるまん」(伊留満=修道士)を訴えた者には銀300枚、
いったん仏教に改宗した者で再 びキリシタンになった者を訴えた者にも銀300枚、
キリシタン並びにそれを匿っ た者を訴えた者には銀100枚をそれぞれ与える。
右のとおり通知する。
たとえ 親類縁者であっても訴え出た者には銀500枚を与える。
キリシタンを匿っていることが他から露見した場合には、
そこの名主・五人組も連帯して一類共に責任 を問われることになる。

正徳元年5月 奉行

同様のものは各地に残されているが、詳細に読むと、全国で完全に統一されているというものではなく、
・天和二年五月から正徳元年5月まで時間に若干の開きがある。
・文面は微妙に異なっている。特に後半の部分。
などがわかります

相場

江戸時代はキリスト教は御法度。
幕末を除く江戸時代を通じて掲げられていたのだろうか、実物がたくさん残され、あちこちの博物館で見ることができる。

曰く「バテレンを密告したものには銀500枚、イルマンを密告したものには銀200枚の賞金を出す」
この銀500枚とは金430両に相当し(変動相場制なのでおおよそ)現在の金額にして3,400万円!!
とんでもない金額だが、そんなにたくさんバテレンがいたとも思えないのでほとんど通告だけの意味しかなかったのだろう。

正徳元年(1711)に発布されたもののようです。

その奥にあるもの

ところが、尾張ではこの意味はちょっとちがってきます。

秀吉、家康はキリスト教を弾圧しますが、
その後、3代将軍家光の時に島原の乱(明正14年:1637)が起こり、キリスト教による民衆蜂起を恐れた幕府は、徹底したキリスト教根絶の方針を立て、これを厳しく弾圧しました。
幕府や、尾張藩ではキリスト教を根絶するために

1.信徒に改宗を求め、これに従わないものは死刑にする
2.信徒の探索につとめ、信者を訴人したものに賞を与える
3.五人組をつくって隣近所の共同責任において、信者の帽子、探索、訴人につとめる。
4.他国よりの移住を禁じる
5.それぞれキリスト教に関係ない宗旨にはいらせ、旦那寺を決めて、その檀徒であることを強制する
6.宗門改め手形を作って、その身分を明らかにさせる
7.疑わしいものには厳重な取調べをする。

このような方法をもって根絶をはかったので、キリスト教信者も、寛文8年から同10年(1668-1670)にいたるころには、ほとんどその影をひそめるようになりました。

信長の直轄地であった美濃・尾張では、キリスト教の宣教が盛んにおこなわれ、民衆の中に浸透していきました。
その中心が岐阜であり、一宮であったようです。
大口にもその信者があったことが、当時の文書に残っており、また、近隣の扶桑町地内には何百人という信者があったと記録されています。
このため、この地方においても次々と宗徒の検挙がおこなわれましたが、当時の尾張藩においては必ずしも決定的な掃討手段ををりませんでした。
これは一説に犬山城主であり尾張藩付家老であった成瀬正虎がキリスト教信者であったため、それへの配慮があったのではないかといわれています。

万治2年(1659)成瀬正虎が没すると尾張藩は大弾圧に踏み切りました。
その2年後の寛文元年(1661)、江戸の旗本は林権左衛門が尾張藩へ使者を出して、自分の領地内である濃州の村の信徒の検挙を申し入れたことに始まり、これにより、尾北一帯におけるキリスト教徒の大検挙が行われました。
特に、犬山藩内においては五郎丸を中心として高木、下野村に信徒が多く、寛文元年3月以降20人、30人と捕らえられ、これらはほとんど名古屋へ送られたと記録されいます。
高木村では寛文5年(1665)までに82人が捕らえられ、ついで斉藤、柏森村そして小口村の信者がつぎつぎに捕らえられ、尾張藩では入牢者756人にのぼり、そのうち半数は死刑に処せられたようです。

(大口町歴史民俗資料館展示資料より)

というように、ここ尾張の地においてはけっこう重いキリスト教信者の密告を進める高札でした。

また明治に入ってからも 長崎では1868〜1869年にキリスト教徒が大弾圧されました。
明治3年11月に長崎浦上切支丹の総逮捕が行われ、3300人が全国21藩へ配流された(浦上四番くずれ)。
金沢藩には517名、大聖寺藩には82名が配流され、そのうち金沢藩より9名、大聖寺藩より33名、合計42名が富山藩へ送られた。
富山藩では、この人たちを合田(大沢野)と経力(富山)の湯へ預け、4月になって教諭によって改宗させるため、藩内の真宗西派二十一ヶ寺、東派八ヶ寺に分散させた。
国際的非難をあびて、条約改正に支障をきたしました。
真宗側は、邪教耶蘚教退治、宗風発揮のときとばかり、10月までに37名を改宗させたが、手段を選ばなかったので信徒の苦しみは限りなかったという。

このあいだこの高札の実物が「なんでも鑑定団」に出ていたが30万円だった。

【徒党札】徒党禁止の札

 東氏記念館 岐阜県
▲徒党札

何事によらずよろしからざることに百姓大勢申合せ候をととうととなへ
ととうして しゐてねかひ事 くわたつるをこうそといひ
あるひは申あはせ 村方たちのき候をてうさんと申
前々より御法度に候條 右類の儀
これあらば 居むら他村にかきらず 早々そのすじの役所へ申出べし
御ほうびとして

   ととうの訴人        銀百枚
   こうその訴人         同断
   てうさんの訴人        同断

 右之通下され その品により帯刀苗字も御免あるべき間
たとへ一旦 同類に成とも発言いたし候ものゝ名まへ申出るにおゐては
その科をゆるされ 御ほうび下さるべし

 一 右類訴人いたすものなく村々騒立候節村内のものを差押へ
   ととうにくわゝらせず一人もさしいたさゞる村方これあらば
   村役にても百姓にても重にとりしつめ候ものは    御ほうび銀下され帯刀苗字御免さしつゞきしつめ候ものともこれあらば
   それそれ御ほうび下しおかるべき者也

  明和七年四月(1770年)         奉 行

忠孝札

親子兄弟札とも言われます。
家族や召使いの間の心得や倹約などのいましめ

 東氏記念館 岐阜県
▲忠孝札

一 忠孝をはけまし、夫婦兄弟 諸親類にむつましく、召使の者に至るまで憐憫をくハラへし、
  若不忠不孝のものあらは可為重罪事

一 万事おこりいたすへからす、屋作・衣服 飲食等にをよふまて倹約を可相守之事

一 悪心を以て或いつはり或い無理を申態或い利欲をかまへて人の害をなすへからす、
  惣?家業をつとむへき事

一 盗賊悪党のもの有之は訴人に出べし 急度御ほうび下さるべき事
 附、博打ち?去令制禁之事

一 喧嘩口論令停止之、自然有之特其場へ猥不可出向、又は手負たる者を隠置べからざる事

一 被行死罪之族有之刻、被 仰付 輩之外不可?集事

一 人売買?去令停止之、年季に召仕遺下人、 男女共に十ヶ年を限るへし、其定数を過は可為罪科事
 附、諸代之家人又は其所に往来輩 他所へ相越在付、妻子をも令所持、其上 科なき者を不可呼返事

右条々可相守之、於有之遣犯之
輩は可被処罪料候被 仰出也、?下知、 如件

天和二年五月日     奉行

 藤川宿資料館
▲忠孝札
定     横八尺長弐尺
一 親子兄弟夫婦を始め諸親類したしく下人等に至るまで
  これをあはれむべし 主人ある輩は おのおの其奉公に
  精を出すベき事

一 家業を専にし 惰る事なく万事其分限に過るべからざる事

一 いつはりをなし 又は無理をいひ 惣して人の害になる
  べき事をすべからざる事

一 博奕の類一切に禁制之事

一 喧嘩口論をつゝしみ若其事ある時 猥に出合べからず
  手負たるもの隠し置べからざる事

一 鉄砲猥に打べからず 若違犯の者あらば申出べし 隠し置
  他所よりあらはるゝに於ては罪重かるべき事

一 盗賊悪党の類あらば申出べし 御ほうび下さるべき事

一 死罪に行はるゝものある時 馳集るべからざる事

一 人売買 かたく禁ず 但し男女の下人 或は永年季 或は
  譜代に召置事は相対に任すべき事

  附 譜代の下人 又は其所に往来る輩 他所へ罷越 妻子をも
  持有付候物呼返べからず 但し罪科ある者は制外の事

右の條々可相守之 若於相背は可被行罪料候也

  正徳元年五月 日    奉行

右従江戸之御制札也

毒薬札

毒薬にせ薬にせ金銀などの禁止

 東氏記念館 岐阜県
▲毒薬種札

 豊川市御油の松並木資料館

  定

一 毒薬并似せ薬種売買の事禁制す 若違犯の者あらば其罪
  重かるべし たとひ同類といふとも申出るにおゐては其
  罪をゆるされ 屹度御褒美下さるべき事

一 似せ金銀売買一切停止す 若似せ金銀あらば金座銀座え
  つかはし相改むベし はつしの金銀も是又金座銀座につかはし相改むべき事

   附 惣して似せ物改むベき事

一 寛永の新銭金子 壱両に四貫文 一歩には壱貫文たるべし
  御料私領ともに年貢収納等にも御定のごとくたるべき事

一 新銭の事 銭座の外一切鋳出すべからざる事

一 新作の慥ならざる書物商売すべからざる事

一 諸色の商売或一所に寛置、しめうりし、或申合高値にいたすへからさる事

一 諸職人のいひ合せ作料手間賃等高値にすべからず 諸商売
  物本は一所に買置しめ うりし或はいひ合せて高値にすベからざる事

一 何事によらず誓約をなし 徒党を結ぶべからざる事

右の條々可相守之 若於相背は可被行罪料もの也

  正徳元年五月    奉行
  天和二年五月 のものもあるようです。

右従江戸之御制札也

駄賃札

これは輸送の標準料金表ですので、当然地域によって異なります。

岡部宿

 岡部町かしば屋
▲岡部から丸子、藤枝までの駄賃を規定

大阪

さすがに商業の中心地大阪、街道が四方八方にあったので、多くの宿までの駄賃が規定されています。


大阪より駄賃并人足賃銭収方迄
 荷物壱駄        弐百五十五文
 乗懸荷人共に      同 断
 から尻馬壱疋      百六十六文

    附 あふつけはから尻に同じそれより重き荷物は
      本駄賃銭に同じかるべし

守口迄
 人足壱人        四拾四文

堺迄
 荷物壱駄        百弐十参文
 乗懸荷物共に     同 断
 から尻馬壱疋      七拾九文
 人足壱人        五十九文

平野まで
 荷物壱駄        七拾九文
 乗懸荷人共に      同 断
 から尻馬壱疋      五拾三文
 人足壱人        三拾九文

松原迄
 荷物壱駄        百弐拾三文
 乗懸荷人共に      同 断
 から尻馬壱疋      七拾九文
 人足壱人        五拾九文

伊丹迄
 荷物壱駄        百八拾六文
 乗懸荷人共に      同 断
 から尻馬壱疋      百廿五文

神崎迄
 人足壱人        四拾壱文

尼崎迄
 荷物壱駄        百三十六文
 乗懸荷人共に      同 断
 から尻馬壱疋      八拾七文

泊々にて本賃銭
 主人壱人        参拾五文
 召仕壱人        拾七文
 馬壱疋         参拾五文

右之通可取之 若於相背は可為回事もの也

  正徳元年五月 日    奉行

渡し船の船賃

  定
    富士川
 当巳7月より 来卯六月迄 十ヶ年の間 渡船賃銭 四割これを増す。

 荷物壱駄        四拾弐文
 乗掛  荷        弐拾七文
 壱人           弐拾弐文

 右の通りこれを取るべし もし相背くにおいては曲事たるべきもの也。

    天明五年巳六月      奉行

 (静岡県韮山町 江川邸 1785年)

御朱印伝馬札

宿場から各地への駄賃や人夫賃のきまり

 藤川宿資料館

 柏原宿歴史館
▲駄賃札
 こちらは全国共通のようです。

定      横四尺八寸長壱尺五寸

駄賃并人足荷物之次第
 御伝馬并駄賃の荷物壱駄   重サ 四拾貫目
 歩もちの荷物壱人      重サ 五貫目
 長持壱丁          同  参拾貫目

但し人足壱人もち重サ五貫目の積リ参拾貫目の荷物は六人して
持べし それより軽き荷物は貫目にしたがひて人数減すべし
此外いづれの荷物もこれに准すべし

 乗物壱丁       次人足六人
 山乗物附壱丁     次人足四人

一 御朱印伝馬人足之数 御書付の外に多く出すべからざる事

一 道中次人足次馬の数 たとひ国持大名たりといふとも其家
  中共に東海道は一日に五十人五十疋に過べからす 此外の
  伝馬道は弐万五人弐拾五疋に限るべし 但し江戸京大阪の
  外道中におゐて人馬ともに追越すべからざる事

一 御伝馬駄賃の荷物は其町の馬不残出すべし 若駄賃おほく
  入時は在々所々よリやとひ たとひ風雨の節といふとも荷物
  □なき様に相はからふべき事

一 人馬の賃 御定の外 増銭を取るにおゐては牢舎せしめ 其町
  の問屋年寄は過料として鳥目五貫文づゝ 人馬役のものは家
  壱軒より百文づゝ出すベき事

   附 往還の輩 理不尽の儀を申かけ 又は往還のものに対し非分
    の事あるべからざる事

右の條々可相守之 若於相背は可為回事もの也

  正徳元年五月 日    奉行

右 従江戸之御制札也

火付札

 大野市郷土歴史館

 新宿消防博物館

  定

一 火を付る者あらは早々申出べし 若かくし置におゐては其罪重かるべし
   たとひ同類たりといふとも申出るにおゐては其罪ゆるされ屹度御褒美下さるべき事

一 火付る者を見付け これを捕へ早々申出べし
  見のがしにすべからざる事

一 あやしき者あらば 穿鑿をとけて 早々奉行所に召連来るべき事

一 火事の節 地車だいはち車にて荷物をつみのくべからず 鑓、長刀、刀、脇差等ぬき身にすべからざる事

一 火事場其外いつれの所にても 金銀諸色拾いとらハるゝにおいてハ其罪重かるへし
  縦同類たりといふとも申出
  口輩は其罪をゆるされ御ほうひ可被下事

 右の條々可相守之 若於相
 背は可被行罪科者也
  正徳元年五月 日    奉行

似ているのですが、このような文章もあるようです。
  定

一 火を付る者あらは早々申出べし 若かくし置におゐては其罪重
  かるべし たとひ同類たりといふとも申出るにおゐては其罪ゆ
  るされ屹度御褒美下さるべき事  

一 火付る者を見付け これを捕へ早々申出べし 見のがしにすべからざる事

一 あやしき者あらば 穿鑿をとけて 早々奉行所に召連来るべき事

一 火事の節 地車だいはち車にて荷物をつみのくべからず 鑓長刀
  刀脇差等ぬき身にすべからざる事

一 車長持停止す たとへあつらへ候ものありとも造るべからず
  一切に商売すべからざる事

右の條々可相守之 若於相
背は可被行罪科者也
  正徳元年五月 日    奉行

また、このようなバリエーションもあります。

一 火事出来の時 みだリに馳集るべからず 但役人差図のものは
  各別たるべき事

一 火事場へ下々相越 理不尽に通るにおゐては御法度の旨申き
  かせ通すべからず 承引なきもの搦捕へし 万一異儀に及ばゞ
  討捨たるべき事

一 火事場其外いづれの所にても金銀諸色ひろひとらば奉行所迄
  持参すべし 若隠置他所よりあらはるゝにおゐては其罪重かる
  べし たとひ同類たりといふとも申出る輩は其罪をゆるされ
  御褒美下さるべき事

 右條々可相守之 若於相背は可被行罪料もの也

  正徳元年五月 日    奉行

 石川県白山市 白山ろく民俗資料館

▲一 火を付る者あらは早々申出べし 若かくし置におゐては其罪重かるべし
   たとひ同類たりといふとも申出るにおゐては其罪ゆるされ急度御褒美下さるべき事

 一 火付る者を見付け これを捕へ早々申出べし
  見のがしにすべからざる事附
  あやしき者あらば さんさくをとげて 早々御代官 地頭に召連来るべき事

 一 火事の節 槌、長刀、刀、脇差とうぬき身にすべからざる事

 一 火事場其外いつれの所にても 金銀諸色ひろいとらハ御代官、地頭へ持参すべし。
  若 隠置、他所よりあらわるるにおゐては其罪重かるべし。  るゝにおいてハ其罪重かるへし。
  たとえ同類たりといふとも申出る輩は其罪をゆるされ御ほうひ下さるべき事

 右の條々可相守  之若於相背可被行罪科もの也
  正徳元年五月 日    奉行

このように内容は地域によって微妙に異なっています。
おそらく中央から文書で通達され、現地で板に書き写された時に、その地域の事情により若干のモディファイが行われたのでしょう。

 大野市郷土歴史館
▲福井県で見たちょっと不思議な高札。詳しい説明はありませんでしたが、
 近年の消防署の「シャレ」でしょうか??

抜荷札

定      横七尺五寸長壱尺八寸
唐物抜荷の儀に付 先年より度々相触る処 近来不正の商売いた
すもの有之趣 粗相聞不届に候 以来は 海陸捕方村町間道筋且
船中にてもあやしき荷物と見かけ候はゞ相糺 不正の荷物に有之
は早速荷物人とも其所へ留置 荷物は所役人荷主立会封印の上
預り置 長崎奉行所 又は其所の奉行 或は御代官領主地頭へ申
出べく候 もし荷主宰領等取逃候はゞ其所の役人共立会 荷物
封印せしめ差出べき事

一 たとひ同類たりとも 差出におゐては 其罪をゆるし 荷物に
  したがひ 多分にほうび銀下さるべき事

一 抜荷差押へ候者并村役人は勿論 すべて不正物附送り候を
  差押へ出るにおゐては 其支配筋役人場所にて始末相尋
  奉行所江其暇届出へく候 しかるにおゐては右の者共奉行
  所へ不及差出間 掛り合の処をいとはず 心がけ差押さへ
  差出べく候 其荷物にしたがひ 多分に褒美銀下さるべき事

一 薩州よりは白糸紗綾にかぎリ京都に問屋定置相廻し 対州
  よりは蓬砂其外薬種類唐物等紛敷品は箱詰の上 朝鮮産の旨
  相記し売先送り状等紛敷無之様 宗対馬守役人送り状を以
  相廻す儀に候 右の外すべて唐紅毛持渡の品は長崎表にて
  買受け五ケ所糸割符宿老手板証文添相廻す儀に候 手板無之
  荷物の分は不正物に有之間 其旨相心得べき事

右之外先年より抜荷筋之儀に付 度々被仰出処之触書の趣
無遺失屹度可相守之者也

  文化二年二月    奉行

右従江戸罷仰下候 堅可相守者也

 品川区立博物館
▲浦高札と言われる抜け荷禁止の高札

 品川区立博物館
▲その原文
 異国船との密貿易を禁止する内容です。

渡海札



今度松平周防守元領分石州浜田松原浦罷在候無宿八右衛門竹嶋ヘ渡海いたし候一件
吟味之上右八右衛門其外 夫々厳科被行候
右嶋往古は 伯州米子のもの共 渡海魚漁等いたし候といへども 元禄の度 朝鮮国ヘ御渡相成候
爾来渡海停止
被仰出候場所に有之 隨而異国渡海之儀は重き御禁制候條
向後右嶋之儀も同様相心得 渡海いたすましく候 勿論国々の廻船等
海上におゐて異国舶に不出合様 乗筋等に心かけ申べく旨
先年も相触候通 弥相守 以来は成べくたけ島沖乗不致様乗廻り申べく候

 右被仰出候触書之趣 無違失屹度可相守之者也

  天保八酉年四月    奉行

右従江戸被仰下候 堅可相守者也

その他ローカルな高札

木場

 深川江戸資料館 複製

▲木場の材木の所有権を明快にする高札
 文政12年5月日 奉行

鷹番

 江戸川区立郷土資料室

 江戸川区立郷土資料室
▲鷹番を止めたので、今後は村の住人で鳥を取るものがいたら取り調べること。

舟運

  定
一 公儀の御船はいうに及ばず 諸廻船共、逢難風時は助船を出し 船破損せざる様に成程丈精出すべき事。

一 船破損の時は、其所 近き浦々の者共精を出し、荷物船具等取揚べし。
  其取揚場所の荷物の内、浮荷物は弐拾分一、沈荷物は拾分一、但 川船は浮荷物は三十分一、沈荷物は弐拾分一。   取揚候者に遣わすべき事。

一 沖にて荷物刎る時は、着船の湊におゐて、其所の御代官手代、庄屋、出合遂穿鏨船に相残荷物船具等の分、證文を出すべきこと。

   附り船頭、浦々のものと申合、荷物盗取刎捨たる由、於偽申は後日に聞といふとも、船頭は勿論申合候輩に至る迄、    その罪重かるべき事。

一 湊に長く船を繋置輩あらば、その子細を所の者 相尋日和次第早々可為致出帆、其上にも令難渋ば 何方の船か承届け、近辺は其地頭、御代官、遠方は勘定奉行、又は其辺の奉行所へ急度可申達事。

一 御城米廻り船々具水主等、不足の悪船に積立べからず。
   並日和能節令破損は、船主沖船頭可為曲事、惣て利不尽の義申掛、且又仇を不成様可被仰付事。

一 自然寄船、并荷物於流来は、可揚取之、半年過迄荷主無之においては、揚置候輩可取之、若右の日数過、荷主出来といふとも不可返之、雖然其所の地頭、御代官、可請差図事。

一 博徒惣じて賭勝負弥堅可為停止事

右條々可相守之、若於相背は可被行罪料者也

     正徳元年 月 日  奉行


▲静岡県韮山町の江川邸にはこの外、一般的な高札が大量に展示されています。

大阪、江戸を結ぶ航路にあたる伊豆ならではの高札です。

人売買札

人売買札の禁止

人売買弥堅令禁止之 召仕の下人、男女共に年季十ヶ年を限るといえども、
向御年季の限無之、
譜代に召抱とも可為相対次第の間、
可存其旨者也。仍如件。
元禄十二年 三月 日     奉行

奈良町資料館

近在札

米などの手形売買の禁止

奈良近辺所々にをゐて、米問屋と名をつけ、あり米無し之して席を構え、
日々に寄合米相場を極め、手形計を以売買いたすのよし、
とたんの様に相聞商売の以形、実なき事にて宣からざるに付 停止の事。

附八木に限らず何れの穀もの 其外諸色の商売物たりといふとも 可為同前事。

右の通急度相守るべし。
若し相背輩於有之は、可為曲事者也。

元禄十一年寅八月 日
彦右
伝左

奈良町資料館

捨子札

捨て子の禁止

 奈良町資料館

捨馬札

捨て馬の禁止

 奈良町資料館

板札

「板札」とは高札の代わりをし、村役宅などに掲げて常時住民に読ませるようにしたものです。

 東氏記念館 岐阜県
▲板札

近来浪人共 水戸殿浪人或 新徴組等と唱、所々身元宣者共
攘夷之儀を口実に無心無懸、其余公事出入等に携、
被是申威し、金子為差出候類有之候、追々増長およひ、隈に朝命等と申触し、
在々農民を党数へ引入候儀も有之哉に相聞、
今般 御上洛被 仰出候折柄、難捨置、依之以来御料私領村々申合置、
帯刀致し居候とも 浪人体 怪藪見受候分 無用捨召捕、手向致し候は、切殺候共 打殺候とも、可致旨被、
仰出候間、悪事不携もの共は早く旧主 帰趨之儀 相願、神妙に奉公可致、若悪事に携、
或者子細在之旧主難立戻分は、有体可願出候、
其始末に応じ罪を免じ、又者難儀 不相成様取計可遺候、
万石以上以下とも用向有之、家来旅行為致候は、其度々吃度道中奉行江被相違、先触可差出候。
領分知行より籠出候者共も、先触差出、
いつれも此程相触候通 調印之書付を以関所々々 可相通、万一先触不差出旅行いたし、
或者旧主並帰参も不致、被召捕候節に至り手向致切殺候は、其身者不遺候間其宣可在候、

右之通万石以上以下不洩様相触、
旦右之趣板札に認、御料私領宿村高札場或 者村役人宅前守に当分掛置候様可被相達候

十二月 

藩主によって出された高札

幕府だけでなく、藩主によって発布された高札も当然あります。

 群馬県立博物館
▲鳥捕獲禁止の高札

在々にてもし鉄砲打ち候者これあり候わば申し出べし。
ならびに御留場の内にて鳥を取り申すもの捕え候か見出し候わば早々申し出べし。
きっと御褒美くだしおかるべきものなり。

享保六年十二月(1721)
右のおもむき仰せ出されおわんぬ。
領内の輩かたく相守るべきものなり。

右京

高崎藩主右京太夫輝貞が出した高札で、藩の御留場(おとめば)で鳥を捕獲することを禁止したものです。

高札の板の再利用




▲高札が転用された番小屋

これは幸田町の博物館に展示されている、番小屋です。
非常に小さなものですが、火事番が屋外で暖を取るための小屋です。
外側の板は高札が転用されており、非常に珍しいものです。
江戸末期に作られたもので、天和や正徳年間の高札が使われています。
おそらく、新政府の「五榜の掲示」が作られたときに、取り外された幕府の高札が使われているのでしょう。
高札は非常に大切にされたものでしょうから、通常は転用するなど考えられないのですが、
新政権により、廃棄された古いものだからこそ転用されたのでしょう。

参考資料
http://www47.tok2.com/home/kawagoe-saitama/kirishitan/20satte-kousatsu.html
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/isi1.htm
http://members.jcom.home.ne.jp/2231247101/fuchu-siseki.htm




2010年12月31日 清水 健一

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