火縄銃と焔硝
火縄銃に関しては 新城市設楽原歴史資料館 の展示、解説が充実しています。
そのすばらしい展示を見て触発され、火縄銃に関してちょっと深く勉強してみました。
▲設楽原歴史資料館の火縄銃の展示
火器の起源
■火薬の発明
火薬は中国で発明されました。
火薬を使った道具が、日本で初めて使用されたのは蒙古襲来100年前の承安2年(1172)のことでした。
その頃の関白太政大臣九条兼実(1149-1207)の日記「玉葉(ぎょくよう)」に次のようにかかれています。
「伊豆の島に、見慣れぬ者が数人、船でやって来た。
そして「自其腋(くすり)出火、畠等悉(ことごとく)消失之」船で姿を消した」
■「てつはう」
その後、文永11年(1274)、九州の博多湾に来襲した元軍は震天雷(しんてんらい)という破裂弾を使用していました。
昔は鉄砲が使われ、その時の印象がこのような絵になったと教科書にも載っていましたが、今では「てつはう」は陶器製の破裂弾であることが確認されています。
▲「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)
後に加筆されているようなのですが、「てつはう」の記述としては最も有名です。
元寇の際の震天雷が海中より発掘されています。
▲平成5年(1993)、鷹島町の神崎海岸で見つかった「てつはう」震天雷。
写真はhttp://www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics020811.htmlより
これは、火薬と鉄片をつめた陶器製の玉で点火してから投石器で発射するもので、火炎や大音響による効果をねらったものです。
日本ではこれを「てつはう(鉄砲)」と呼び、これ以後 火薬を使用する筒型花器が「鉄砲」と呼ばれることになります。
それ以前に中国では遅くとも904年には火薬の武器を使っていました。
銃のようなものは1259年宋の軍隊が作った「突火銃」といわれているものがあります。
▲銅砲、一窩峰(いっかほう)
中国(宋〜明時代)で使用された火薬の武器
火縄銃の誕生
14世紀初頭、中国で発射用火薬と火縄銃の前身ともいえる金属製火器「手銃」が発明されると、これらの技術はやがてヨーロッパに伝わり、火縄銃の誕生を迎えます。
■手銃
▲手銃 火縄銃以前の火器
手銃とは何か?
歴史上、最もはじめにつかわれた金属製の筒型火器です。
中国で発現したこの火器は、やがてアラビア人の手を通してヨーロッパに伝わり、火縄銃の原型となりました。
どこのものか?
この手銃には「万暦癸未八月日勝字小承二年五月両匠口加茶五銭丸五高上」という銘があります。
この「万暦」という元号は中国時代の年号です。
更に「勝字」というのは朝鮮半島製手銃にはよく見られる銘です。
いつのものか?
銘にある「万暦癸未」から、日本の年号の天正11年(1583)です。
この年は勝つよりが信長に滅ぼされ、信長が本能寺の変で自刃した翌年です。
日本への伝来
■鉄砲伝来
▲火縄銃伝播ルート
天文12(1543)年,種子島の門倉岬に漂来したポルトガル人は時の種子島島主恵時とその子時尭に鉄砲を伝えました。
船は中国船で中国人(明)の五峯(ごほう)を船主とし、2人のポルトガル人の商人が乗船していました。
その船に島民が近づこうとすると、先方から鉄砲を撃ち放ち、その轟音に村人は驚き騒然となりました。
大船から小船に乗り換えて浜に下り、西之村の地頭西村織部丞が筆談で意思疎通しました。
我々は貿易商人で怪しいものではない。
台風にまきこまれてここに着いた。 と
ちなみに、五峯は後に倭寇の頭目として活躍します。
8月25日に漂着し、8月27日に西之表の赤尾木に回航され ポルトガル人から大金で購入した とも、
食料と交換したとも伝えられています。
南浦文之(なんぽぶんし)の鉄砲記には
「火を放てば、即ち中(あた)らざるなし、其の発するや撃電の光の如く・・・」とかかれています。
ポルトガルの記録である「諸国新旧発見記」には、ポルトガル人は3人とあり、来日を1542年としています。
異国船の乗組員一行は、およそ半年間種子島に滞在したそうです。
■その根拠は
鉄砲伝来に関する現在の通説の根拠は南浦文之の鉄砲記がもとになっています。
1.鉄砲は1543(天文12)年に伝来した。
2.紀州根来(ねごろ)寺の杉坊(すぎのぼう)が鉄炮を求めて種子島にやってきたので、時堯はこれに感じて鉄炮一挺を杉坊に贈った。
その後、泉州堺の橘屋又三郎が来島し、鉄炮を学んで2年後に帰国した。
彼は鉄炮又とあだ名されたが、かくして鉄炮は畿内・関西、さらに関東方面にまでひろまった。
3.鉄炮は伝来すると、ただちに戦いに投入され、旧来の戦闘技術を一変させ、城郭様式にも大きな影響をおよぼした
しかし、
南浦文之の鉄砲記は種子島久時が禅僧の南浦文之(なんぽぶんし)に書かせた記録です。
1.出来事の60年後、すなわち、1606(慶長11)年に書かれている。
2.久時は、今日の鉄炮隆盛の基は、ひとえにわが種子島家の祖父時堯(ときたか)の功績にあると主張しているように、祖先を顕彰するのが目的である点
という理由で信頼性には乏しいようです。
もうひとつの史料は
アントニオ=ガルヴァンが記した『諸国新旧発見記』(1563年刊)という地理書です。
「1542年にアントニオ=ダ=モッタ・フランシスコ=ゼイモト・アントニオ=ペイショットの三人がシャムから脱走してリャンポー(寧波・双嶼)へ向かう途中嵐に遭い、日本に漂着した」
という記述があるだけで、鉄砲伝来には触れていません。
もう少し後に編纂されたロドリゲスの『日本教会史』ではもう少し詳しくなって、1542年にこの三人が種子島に漂着し、鉄砲を伝えたのだという記述が加わります。
■鉄砲の技術伝来
この新兵器に魅せられた時堯は、家臣の篠川小四郎に命じて、火薬調合の方法を学ばせるとともに、鍛冶職人に銃筒の製作を研究させました。
火縄銃への挑戦
領主から銃の製作を命じられた鍛冶職たちは、伝来の銃を手がかりに製作にとりくんだ。
時堯、鉄匠数人をして塾々其の形象を見、新たに之を製せしめんと欲す。
種子島の海岸線は、鉄浜(かねはま)の名前がついている場所があるなど、豊富な砂鉄の産地です。
古い時代から、鉄製品の生産が行われており、すぐれた鍛冶職人が育っていた。
▲種子島の鉄浜の砂
砂鉄を大量に含んだ砂で、鍛冶屋が発達した。
鉄砲伝来直後から種子島の鍛冶たちによって伝来銃の模造が試みられ苦難の末に成功しました。
苦労の末、鉄砲はできあがったが、実際に使ってみると不具合があり、特に銃筒の底のふさぎ方に問題がありました。
■八板金兵衛(やいたきんべい)の苦心
ネジの工夫
特に苦労したのは銃身の後端のボルトを入れるための 「メネジ」部の製作方法といいます。
これを解決したのが、八板金兵衛でした。
その技術を得ようと娘「若狭」をポルトガル人に嫁がせたという伝説も残されています。
彼の娘「若狭」の伝説にあるように、1年後再渡来する外国船の鉄匠に学んだものか、八板金兵衛自身の工夫によるものかはわかりませんが、ネジを切る事によって段違いの命中度となりました。
種子島は自らの手で待望の火縄銃を完成させました。
ボルトの上に熱した鉄を巻いてネジを転写する方法と、切削により「ネジを切る」方法が考えられます。
長い間論争がありましたが、解析により現在では切削で作られたということが明らかになっています。
若狭について、八板氏系図は「牟良叔舎(むるじゅくしゃ:外国商人)に嫁ぎ、南蛮国に到り」と記している。
今も西之表高台のソテツの陰に、墓石がひっそりと立っています。
伝来の2丁のうち1丁は 紀伊根来(ねごろ)の津田監物(つだけんもつ)に渡り、
他の一丁は種子島家に伝承されてきたが、西南戦争の際に焼失しました。
▲ポルトガル人が初めて持ってきた火縄銃
▲鉄砲伝来翌年にできた国産初の火縄銃(種子島)
▲種子島銃
種子島で製作された銃には他で作られた火縄銃とは異なる特色がある。
銃床の形状、銀製のからくりを金箔で装飾している。
▲日本での伝達経路
種子島銃の技術は、貿易商人らによって、堺や紀州根来に伝わり、まもなく近江の国友へ伝わりました。
種子島では、わずか1年のうちに、数十丁の火縄銃が生産されるようになりました。
「種子島」鉄砲の誕生です。
当時、琉球は中国に向かう商人たちの船には、種子島を途中の寄港地としてりようしていたので、鉄砲の伝来から製作、生産開始のニュースは、商人を通じて各地に伝えられていった。
紀伊根来の津田監物(つだけんもつ)は、いち早く種子島をおとずれている。
伝来して6年後薩摩の島津貴久(しまづたかひさ)が、大隈攻めで鉄砲を使っている。
7年後には畿内で鉄砲が実戦に用いられている。
■広がる産地
戦国期の生産地
最初に製作に成功した種子島との交流があり、素地となる優れた鍛冶職人がいる堺や薩摩で生産が始まった。
初期の生産地は薩摩(鹿児島県)、豊後(大分県)、根来(和歌山県)、堺(大阪府)、国友(滋賀県)といわれます。
▲幕末までの国産火縄銃のいろいろ
生産の広がり
火縄銃の普及とともに、鍛冶技術の下地を持つ各地で、鉄砲の生産が行われるようになった。
先の初期生産地のほかに、肥前(佐賀県)、備前(岡山県)、米沢(山形県)、仙台(宮城県)なども産地として名高い。
江戸時代、各領主は自藩の兵備を整えるために地元の鉄砲生産を期待した。
新城での記録はないが、隣の吉田藩(豊橋)には国友系の鉄砲鍛冶がいた記録がある。
これらの各地の産地では鉄砲鍛冶はいたが専業は少なく、普段は野鍛冶として農機具や錠前などを作り、生計をたてていたようです。
▲火縄銃の主な生産地
根来(ねごろ)の鉄砲
根来で銃の製作にあたったのは、鍛冶職 芝辻清右衛門であった。
以後、1585年秀吉によって滅ぼされるまで、根来は鍛冶と僧兵による鉄砲の生産地だった。
堺の鉄砲
監物に少し遅れたが、堺の商人橘屋又三郎は、種子島に1年以上も留まって火縄銃の西方を学びました。
後に「鉄砲又(てっぽうまた)」と呼ばれた又三郎や根来から帰住した清右衛門等により、堺はやがて火縄銃の生産拠点となっていきました。
一般的な銃は実用を主としているため質素ですが、堺銃は美観を重視し銃身の上面に様々な象嵌をし、銃床部にも飾り金具が華麗に施され、また銃口部に柑子(ふくらみ)があるものが多い。
国友の鉄砲
琵琶湖北で、鉄を求めやすい位置にある国友には、早くから優秀な鍛冶技術がありました。
ただし、鉄砲の材料鉄としては粘り気が多く、かつ強靭な良質錬鉄が適当です。
これは、出雲、播磨より産する真砂砂鉄を原料として製造されました。
ちなみに近江で岩鉄より製作された鉄は、チタンを多く含み鉄砲の材料としては不向きであるといわれます。
出雲、播磨で作られた鉄は日本海や瀬戸内海、淀川の水系を経て、国友へ運ばれました。
国友鉄砲のいろいろ
火縄銃は、その口径によって3つのランクに分けることができます。
およそ六匁玉の口径(約15.8mm)以下を細筒といい、
50匁の口径(33mm)以上を大筒と称する。
その間が中筒でした。
実戦で多く用いられたものは中筒クラスのものです。
このほか、馬に乗ったまま片手で発射できる短筒=馬上筒もありました。
この分類でも地域によって違うようで新城では
小筒 3匁5分弾を中心とする最もポピュラーな鉄砲
並筒、番筒とも言う。
中筒 10匁玉筒を中心としたもの。
軍用として考案された。
銃身に家紋や装飾が施されたものもある。
別名 士筒(さむらいづつ)
大筒 30匁以上の大口径の銃で、用法によって抱筒と置筒に分けられる。
▲弾丸
厳密に規格化、共通化されておらず、弾丸はそれぞれの銃に専用でした。
▲銃口の装飾
シンプルな銃口は国友
らっきょうのように広がった銃口は堺の鉄砲。装飾的です。
国友でも伝来からさほど遠くない時期に鉄砲の製作が始められとみられる。
堺と並ぶ鉄砲の一大産地となるのは、慶長以後のこと。
国友鉄砲鍛冶の組織
鉄砲の生産が軌道に乗ってくると、彼らを一つにまとめる組織ができあがってくる。
「惣鍛冶(そうかじ)」とか「仲間」と呼ばれるもので、年寄を中心にして年寄脇・平鍛冶40人余人で構成されていました。
最盛期には70余軒の鍛冶屋と500人を越す職人がいました。
彼らは何度か仲間の結束を確かめ、幕府への忠誠を誓った連判状を作成しています。
年寄りの平鍛冶に対する支配・統制はきびしく、江戸も中期に至ると、年寄の平鍛冶に対する支配、統制は厳しく、江戸も中期に至ると年寄の特権に対し反発する動きが多くみれれるようになりました。
また、幕府からの注文は年々減り、それにともなって、鍛冶たちの生計も苦しくなった。
鍛冶数も減少し、寛政9年(1797)には20軒でした。
なお、国友には年寄の支配に属さない「十万方」という別流が存在しましたが、江戸中期に衰退したという。
幕末に優秀な元込銃が欧米より輸入され、
それに伴う大量生産を目的とした新技術も導入、
伝統的な手工業にたよる国友鉄砲鍛冶は使命を終えた。
長州征伐に幕府の鉄砲薬方として従軍したものもいたが、多くは鍛冶職を離れていった。
幕末には鍛冶29人、台師10人、金具師3人の名前が確認できます。
最後の鉄砲鍛冶は昭和の初期までいました。
▲長浜市国友町
国友は昔も今も田の中の小さな集落
分業が進み、各地から門人が集まってきました。
それぞれの製作の技術は他言はしないと起請文を残している。
火縄銃の構造と部分名称
火縄銃は種火のついた縄で火薬に点火し、弾丸を発射させる。
▲火縄銃の構造
・筒(つつ:銃身) 銃身の先から火薬と鉛の弾を込めて、カルカという棒で押し詰めました。
・台木(銃床) 樫材が多い。
堺、国友では内側に墨銘をつけています。
くるみなどの堅い木も使われる。
・カラクリ(機関部)
火蓋を開け、引き金を引くと、火ばさみにつけられた火縄が火皿に落ちる。
火皿の導火薬が点火し、中の火薬が爆発する。
内カラクリと外カラクリの2種があります。
・毛ぬきがね
火縄ばさみを上げ下げする働きをするばね
・火ぶた
火薬を入れた火皿に、安全装置としてかけておくふた
・火縄ばさみ
点火した火縄をはさむもの。
これが落ち火皿の火薬に火をつける
・用心鉄
引き金になにかがふれて暴発するのを防ぐ安全装置
・火皿
点火薬を入れる小さな皿状のくぼみ 中心に小穴があり、銃身内部に通じる。
・目当
鉄砲をかまえて狙う見当になる部分。
前後の見当を重ねて狙いを定めた。
霧の火や夕暮れ時に線香などを立てて使われたといいます。
・目釘
銃身を銃床に固定させるための釘
・かるか(さく杖)
銃口から入れた黒色火薬と弾丸をこの棒でつきかため、弾丸の飛び出す力を強める。
火縄銃の操作
▲筒先から火薬を入れます 鉛のたまを入れます 取り付けのかるか(さく杖)で、つきかためます。
▲手もとに点火薬を盛りつけます 火のついた縄を、火ばさみにはさみます
▲的にねらいを定めます 安全のための火ぶたを開けます
▲引き金をひきます 発射
火縄銃小道具
火縄銃を使うには最低3つの専用小道具が必要です。
1).筒先から詰める火薬の入れ物。蓋一杯分が定量
2).火薬に続けて詰める弾の入れ物
3).火皿に点火用の火薬をもる口薬入れ
さらに、これらを支える小道具があります。
▲口火薬入れ
焔硝を乳鉢で粉末状にし 火皿に盛り発火させる火薬入れの用具
▲火薬試し
出来上がった火薬の威力を少量だけ燃焼させ、テストするためのもの
▲火薬入れ
▲火打道具
火を起こす道具
▲弾造り道具
説明
▲早合
火縄銃に火薬と弾丸をすばやく装填する道具。
▲襷早合(たすきはやごう)
早合を縦に十数個結びつけた襷がけにして携行します
▲古火縄
火縄にも塩硝がしみ込ませてあります。
木綿や桧、竹等で作り、軍用は藍染です。
3尋(ひろ)の輪に巻き、輪火縄になっています。
火縄はもちろん、火をつける火打ち道具。
火縄銃を実際に使う時は、火縄に火をつけたままの移動となります。
安全な操作、持ち運びのための道具、胴乱等が必要になる。
これらの小道具の素材は 竹、木、皮、角材、金属と 天然の材料が使われています。
▲火縄
伊勢国鈴鹿郡関宿は、江戸時代から火縄の生産地として有名でした。
河内国の木綿を金剛織し、加賀国の上質硝石(五箇山産)を使った秘伝の綿火縄は、火持ちがよく、立消えがなく、使いやすいために、全国の砲術家が、きそって手に入れようとしたものです。
・火薬秤
火薬を詰めるには、一回分の量を計る簡単で使いやすい枡(火薬秤)がいる。
あらかじめ火薬の量と鉛弾を一定の容器に入れておく早合は、現在の薬莢(やっきょう)にあたります。
その銃の専用品です。
・鉛を溶かすための鋳鍋(いなべ)。
溶けた鉛を流し込んで弾の形をつくる鋳型は、銃に合せて専用です。
弾を取り出しやすくするための烏口(からすぐち)の革袋も必要です。
・雨おおい
▲雨を防ぐための「雨おおい」
火縄銃の弱点は、なんといっても雨。
そこで、雨の日に火縄と火皿をおおう道具が発明されました。
流派の隆盛
各大名は、鉄砲の名人を募集して高禄で召抱え、鉄砲指南として家臣の指導にあたらせた。
当初は戦いを想定した指導訓練も次第に実戦とは離れたものになり、武士のたしなみとして、砲術研究として盛んになっていった。
砲術の流派は、こうした太平ムードの中で栄え、多くの流派が生まれた。
免許の秘伝書は実に多くの内容を持ち、その習得にはかなりの年月を要したが、一方火縄銃の工夫・改良も彼等の手で進められた。
・稲富流 戦国末期の稲富一夢が始めた。幕府方の鉄砲役。
・田付流 鉄砲三名人の田付景澄(たつけかげすみ)が始めた。火蓋、床尾に特長。
・井上流 外記流ともいい、後幕府の鉄砲役となる。
・霞流 江戸初期からの流派であり、米沢藩に伝わる。
・関流(せきりゅう) 寛永に始まり大筒の射撃が有名、土浦に伝わる。
・荻野流(おぎのりゅう) 寛文期に始まり、大阪を中心に広く栄えた。
・求玄流(ぐげんりゅう) 文久3年(1863)、この流派の射的行事が新城で行われています。
富永神社の絵馬(納額)はこの時のもの
・天山流 荻野流の流れを汲み、周発台(しゅうはつだい)は著名。改組は高遠の出身。
・西洋流 幕末、高島秋帆(たかしましゅうはん)の弟子村上定平(田原藩士)の門人帳に、竹広陣屋(新城)の滝川一寧(かずやす)の名がある。
火縄銃の製作工程
▲銃身の製作工程
銃身の巻張りは既に高水準に達していた刀鍛冶の技術を応用すればそれほどむずかしいものではありませんでした。
▲銃床の製作工程
銃床は、主によく乾かした白樫を材料として、ノミ、カンナ、チョウナを使い、形が彫り出されました。
▲平からくり
▲鉄砲鍛冶の工房
▲工具
▲中繰りの工程
銃身の穴を整えるための工程
鉄砲の種類
▲南蛮風火縄銃
江戸初期に大阪堺で製作された。
銃身の象嵌など、南蛮風の飾りを見ることができる。
▲朝鮮製火縄銃
朝鮮での火縄銃製作は秀吉の朝鮮出兵以降盛んになったと考えられる
▲中国製の火縄銃
・連発銃
17世紀の後半、国友鍛冶によって作られている。
全弾一斉発射の優れた技術作品。
・気砲
今の空気銃で、幕末の科学者、国友一貫斎の製作。
天保年間には20連発の早打気砲も実用化したが、普及には至らなかった。
このほか、短銃、木砲、雷火式などさまざまな工夫がありました。
大型砲
大型砲としては、石火矢とか仏郎機と呼ばれるものがあります。
仏郎機(ふらんき)とは 室町時代末期頃、西洋から輸入された青銅製の大砲のことです。
フランキとは中国でポルトガル人のことを指したことばで、それがそのまま当てられて「仏郎機」と呼ばれたものです。
日本では南蛮渡来の大砲のことを意味しました。
http://w3.shinkigensha.co.jp/book_naiyo/4-88317-231-7p.htmlより
▲仏郎機
九州方面で早くから輸入品の大砲(石火矢)が使われたが、鉄砲鍛冶による大筒の国内製造(「国友鉄砲記」も早い。
天正3年(1575)の長篠城では、篭城軍が甲州兵の作った望楼に向かって大筒を使用したといいいます。
「城中巨砲を案配し、撃って瞬時にこれを崩潰す」(設楽戦史考)
大型砲は大阪冬の陣(1614)の城攻撃に威力を発揮したが、太平の中で次第に実用的役割を失っていった。
大砲整備の必要がよみがえるのは、幕末騒然の中です。
江戸時代独特の大砲形式のものに、火筒矢があります。
▲棒火矢
火筒矢
棒火矢の発射に用いたもので、砲術家が扱った。
火矢の先に火薬等燃えるものを取り付け、火をつけたまま目標に打ち込む。
火縄銃を使った戦争
・島原の乱
寛永14年(1637)〜寛永15年(1638)
天草領及び島原領の圧政に対して キリシタン農民が天草四郎を大将に起こした反乱。
キリシタン農民は3倍以上の兵力を持つ幕府軍を火縄銃を使って半年間も苦しめた。
・大阪冬・夏の陣
慶長19年(1614)〜慶長20年(1615)
徳川家康 vs 豊臣秀頼
慶長19年の冬に家康は、大砲で大阪城を攻撃する。
一旦講和をするが、翌20年夏に再度大阪城を取り囲む。
「大阪夏の陣図屏風」に火縄銃を持つ多くの兵士が描かれています。
・賤ヶ谷の戦い
天正11年
羽柴秀吉 vs 柴田勝家
本能寺の変後、秀吉と勝家が信長の後継者となることを目指した戦い。
「賤ヶ谷合戦図屏風」に火縄銃を持った砦の兵士による防戦の様子が描かれています。
賤ヶ谷の戦いはこちらをごらんください。
・関ヶ原の戦い
慶長5年(1600)
徳川家康 vs 石田三成
豊臣秀吉没後、豊臣政権の前途を憂いた三成が、家康と戦った戦争。
三成は国友付近を治めていた。
双方で火縄銃の使われた様子が「関ヶ原合戦屏風」に詳しい。
・川中島の戦い
天文22年(1553)〜永禄7年(1564)
武田信玄 vs 上杉謙信
川中島で5回にわたって対陣したが、特に永禄4年(1561)の戦闘が激しかった。
武田軍が火縄銃を装備している様子が「川中島合戦図屏風」に描かれている。
・小牧・長久手の戦い
天正12年(1584)
徳川家康 vs 羽柴秀吉
織田信長没後、家康が信長次男の信雄を助けて秀吉と戦うが、お互いの実力を認め講和する。
「小牧長久手合戦屏風」に火縄銃を撃つ兵士が描かれている。
小牧・長久手の戦いはこちらをごらんください。
・長篠・設楽原の戦い
信長・家康の鉄砲に対し、騎馬隊で戦闘を挑んだというイメージが強いようですが、信玄の鉄砲の採用は早く、2回目の川中島合戦での記録があります。
鉄砲の弾を防ぐ盾として丸竹が使われていたので竹束をかつぐ足軽は多く見かけられた
三千丁鉄砲の用意
三千といわれる大量の火縄銃をどのように調達したのかは、はっきりした記録はない。
堺を始め支配下の生産地で、集めたものであろう。
天正元年(1573)、近江長浜の領主となった秀吉が国友に与えた文書(秀吉安堵状)はこうした事情を伝えていると思われます。
多聞院日記(たもんいんにっき)が伝えるように各地の武将からも相当数の鉄砲と銃手が集められています。
狩猟用の鉄砲
鉄砲は戦いの中だけではなく、狩猟のために使われることが多くありました。
火縄銃では火を用いるためワナとしては使えませんが、管打式は火を使わないため、ワナとして用いることができました。
太平の鉄砲
島原の乱が終わり平和な時代を迎えると、火縄銃も装飾が施されるなど、新しい時代を迎えました。
太平の時代、火縄銃の兵器としての役割は小さくなり、代わって武道の心得としての要素が大きくなった。
また狩猟の道具としても使われ、普及とともに、銃身に家紋を入れる装飾的傾向が一部に見られるようになった。
銃身の象嵌
鉄の黒地に、金・銀・真鍮などが、定紋や花鳥・人物として埋め込まれました。
台木の装飾
飾り金具がつき、時に蒔絵の紋や唐草模様が描かれました。
火縄銃の欠点を補う、新しい動きもでてきました。
幕末の鉄砲
幕末になると火縄銃から新しいタイプの鉄砲へと変わっていきました。
そのひとつが管打銃という鉄砲です。
火薬をたたくことによって火花を起こすという画期的な発明により製作された鉄砲です。
この管打銃は構えると頬当てではなく、肩当てのタイプであり、洋式銃の特徴を伝え、西洋から輸入された鉄砲であると思われます。
ヨーロッパの火縄銃。
15世紀に無敵と恐れられたスイス式の槍兵集団は、16世紀に入ると、1512年の「ラベンナーの戦い」を初めとして、相次いで大きな被害を受けるようになった。
いずれも火縄銃隊のこうげきによるものであった。
以後17世紀にかけて、鉄砲の比重が次第に高くなってゆく。
馬防柵の戦術
設楽原の戦いの前年、1574年、ロシアの皇帝イワン4世は、ウラル東方からの攻撃に対抗するために、柵や堀を中心にした野戦城の構築を命じています。
城砦にこもりながら騎馬隊のダメージを守った。
複数構えの火縄銃射撃
発射間隔の弱点を補うために、二番手、三番手の打ち手が次々に出てくる一斉射撃方式は、1594年のオランダの文献に出てきます。
1630年のプライテンフェルトの戦いは、以後の戦法に大きな影響を与えました。
スランカメン(Slankamen)の戦い。
1691年、オーストリア軍がオスマントルコ領内に進撃した時の、スランカメンの戦いは、設楽原の再現のようでした。
馬防柵と火縄銃陣構えが、その地の武器史博物館に展示されています。
▲スペインの甲冑
弾痕がありますが、試し撃ちでもされたのでしょうか?
■点火装置の進化
▲燧石式(フリント・ロック) 17世紀〜19世紀
発火装置の改良銃、フリントロック式のもの。
スナップハウンズとミゲレットロックを合せて完成したもの。
約200年間使用された。
スプリングで火打石を鋼鉄片に打ちつけ発火させました。
江戸初期の導入だが、命中率が劣り普及しなかった。
幕末にも高島家によって日本へ輸入されたが まもなく管打式に駆逐された。
▲粉発式(ビルロック) 1807年頃
英国人フォーサイスが発明した。
火薬を小粒状にして小さい皿の中に入れ、それをハンマーで打って発火させた。
しかしこれは雨や風に妨げられ発火は不完全でした。
▲ピン打式(ピン・ファイヤー式 またはカニ目打式) 1836年
フランスのE・フホーショーが発明。
引き金をひくと弾丸の底部近くに仕込んだピンを撃鉄がたたいて発射させる。
この発明によって発火装置は、先込め・単発式から元込・連発式へと進歩した。
▲管打式 (パーカッション・ロック)
19世紀初頭にヨーロッパで開発された新発火装置。
スイスの銃工が紙に包んだ雷管を発明したことに始まる。
まもなく銅製の雷管が発明されて発火が早く確実になり、単発式から連発式ペッパーボックス(胡椒入れ)型に進歩した。
火縄銃からの脱皮
幕末、激動の時代を目前に控え、火縄銃にも大きな変化が訪れることになりました。
新式銃へ試行錯誤の日々が続きます。
火縄銃の欠点を補うために、多くの工夫がなされてきたが、300年間日本の火縄銃式発火装置は変わらなかった。
ヨーロッパでは燧石銃の普及につづいて、19世紀に入ると発火装置に画期的な発明が行われた。
管打式銃の発明
19世紀初頭にヨーロッパで発明された新発火装置でした。
雷管銃とも呼ばれ、雷管の爆発により銃口内の火薬に着火し、弾丸を発射させる方式。
この発明により先込式単発から元込式連発へと進歩することになった。
日本には天保中期に伝えられている。
雷汞(らいごう)の製作
雷汞は1774年にフランスで創製されました。
尾張藩奥御殿医師の吉雄常三(よしおじょうぞう)は、天保13年(1842)、起爆薬である雷汞の製作を研究している。
雷汞は加熱や衝撃で容易に爆発する火薬で、彼はその実験中、事故死した。
「粉砲考」の著者
雷汞を、金属製容器に詰めたものが雷管で、これを打って発火させ、火縄に代えたのが管打式銃である。
火縄式の欠点を解決した管打式銃への交替は、輸入銃により急速に進むことになりました。
各地の鉄砲鍛冶は、これまでの火縄銃を改造して管打式銃の製作を始めた。
▲雷管 (鳥の羽根製)
火縄式に代わって管打式が使われ始めた最初の頃、日本で作られた大砲用の雷管です。
年の羽根の軸の部分に火薬を入れ、蓋を糊で接着してある。
防水用に外側全体に漆が塗ってあります。
▲管打式銃
幕末の洋式銃
黒船の時代、火縄銃は次第に時代遅れの道具になっていきました。
代わって、日本には大量の洋式銃が輸入されました。
新方式の雷管銃が伝えられると、国内でもその製作が始められたが、次々と輸入される新型の洋式銃に追いつくことはできなかった。
火縄銃から雷管銃への交替が進むにつれて、兵制の改革も進んだ。
各藩は外国の新装備への期待と国内政情の不安から、競ってこの新式銃を求めました。
幕府は、様々な統制を試みたが、実効は上がらなかった。
大量の輸入
安政以降のわずかな期間に、わが国に輸入された洋式銃の数は、数十万丁にのぼった。
各藩の財政力の強弱と導入した銃の性能が、その後の軍事的優位につながることになりました。
■ゲーベル銃
先込式単発銃 滑腔式
ゲーベルというのはオランダ語で小銃のことです。
天保2年(1831)に高島秋帆(たかしましゅうはん)が輸入した1777年式オランダ歩兵銃が代表的です。
火縄銃との違いは、点火方法が火打石式になったこと。
当初は火打式発火機でしたが、1845年からは雷管式に改良されています。
17世紀からヨーロッパの軍隊で使用されたもので、幕末当時すでに旧式となっていた。
幕府が西洋武器の輸入を許可した安政6年(1859)以後、多くの藩が購入している。
最大射程は950m、銃身を3つの環帯によって銃床に固定されているところから「三ツバンド」とも呼ばれました。
■ミニエー銃
1844年 ミニエー弾開発。
19世紀、フランスで発明された先込式ライフル。 施条式
アメリカ、オランダ、イギリス、ベルギーなどで製作され数多く輸入されている。
幕末の混乱期で主流は最後までミニエー銃でした。
続いて、各種の連発式の後装ライフル銃が輸入されるようになると、火縄銃は、その歴史的役割を終えました。
▲ミニエー弾とは底部に上図のようなへこみがあり、このへこみに木の栓[せん]をつめて使用します。
そうすると発火時にガス圧によって木栓が圧せられ、弾丸の“スカート部”を拡張させ、弾丸は銃身中にきってある螺旋に食いこみます。
その結果、弾丸に回転がよくかかり、まっすぐに飛び命中度が高くなるわけです。
これにより内径より小さい弾の使用が可能になりました。結果、装填しやすく命中精度の良い銃となりました。
http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/h/073.htmlより
■スペンサー銃
▲スペンサー銃
元込式7連発。薬莢を使用する。弾丸は椎実型。
1860年にアメリカで発明される。アメリカ南北戦争で活躍。
■村田銃
▲村田銃
村田経芳が洋式銃のよい点を取り入れ考え出した 世界的レベルの鉄砲です。
足助の火縄銃
足助のおまつり鉄砲
足助町(豊田市)では祭礼などで火縄銃を撃っています。
特に足助町の中心にある足助神社では江戸時代から行われ、毎年百丁を超える火縄銃が演武を行います。
火縄銃には全て火縄をはさむ「火ばさみ」と「引き金」が付いていません。
これは手で点火する「差し火」という方法で着火するために必要がなかったためです。
江戸時代から祭礼で用いられていたため 少々痛んでいますが、由緒ある鉄砲ばかりです。
この火縄銃の特徴は
1.形状が全て同じである。全長、口径共(17mm)にほぼ同じ大きさです。
2.「東加茂地区警察署」の刻印が押されている。
3.多くが尾張藩の鉄砲鍛冶製作である。
こうしたことから幕末から明治期にかけて葛沢地区へ一括して搬入、所有されたものであると考えられます。
足助の祭りはこちらをごらんください。
鉄砲という単語が使われる言葉
・鉄砲瓜
ウリ科の一年草
果実は長楕円形で先端から勢いよく種を弾き出す。
・鉄砲百合
ユリ科の球根草。
細長い花を数個咲かせる。
・鉄砲魚
体長20cmほどの魚。
口から水滴を発射して昆虫などを落として餌とする。
・鉄砲海老
海老の一種。
片方のハサミが極めて大きく、閉じるときに鋭い破裂音を発する。
・鉄砲虫
カミキリムシの幼虫
・鉄砲
フグのこと。
当たると死ぬということからか
・鉄砲汁
フグ汁
・てっちり
フグのちり鍋
・鉄砲巻き
かんぴょうを真にした細い巻き寿司
・鉄砲あえ
酢味噌にみじん切りにした長ネギをすって加え、魚介類にあえたもの
・鉄砲焼き
魚や鳥の肉に唐辛子みそを付けて焼いた料理
・鉄砲ざる
細長く円筒形のザル
・鉄砲絞り
鉄砲玉のように丸い玉が散らばった絞り染め。
豆絞り。
・鉄砲袖(てっぽうそで)
袖口の狭い筒袖。
筒袖を付けた半纏や羽織。
・空鉄砲
うそ。でたらめな話。
・鉄砲矢八
うそつきのこと。
・鉄砲玉
使いなどに出たまま戻らない人
泳げない人
・鉄砲
相撲の稽古方法の一つ。
脇を固めて足を出しながら手で柱を突くこと
・火ぶたをきる
戦いが始まること。
火縄銃を撃つ直前に火ぶたを開けることから
・鉄砲雨
急に激しく降る大粒の雨。
・鉄砲流し
材木運搬方法の一つ。
河を堰き止めて材木を浮かべ、堰を切って一気に押し流す方法。
・鉄砲堰
鉄砲流しのために設ける堰
・鉄砲水
集中豪雨のため鉄砲堰を切ったように激しく押し出す水の流れ
これらの言葉を見ると
「筒形状」概念、「突然」概念、「発射」概念、「危険」概念で構成されているようです。
当然鉄砲伝来以降に使われた言葉でしょう。
黒色火薬
火薬は中国で発明されたと言われています。
硝石75%、木炭15%、硫黄10%を調合して作ります。
爆発するときには黒い煙が出ました。
▲硫黄
▲木炭
硝煙づくり
愛知県の博物館では硝煙に関する展示はありませんが、ついでに勉強。
岐阜県、富山県の博物館には多く展示されています。
▲煙硝
煙硝、焔硝、塩硝、硝石 とも呼ばれます。
塩硝の字は主に生産地で使われ、
焔硝の字は硝酸カリウムだけではなく、黒色火薬などの火薬の総称にも使われたようです。
硝石は現代の通称。硝酸カリウムは化学的な正式名称です。
いずれも 成分は 硝酸カリウム(KNO3)です。
無色透明の柱状結晶で臭いはなく、塩味があります。
鉱石としての硝石の産地は欧州各国、南アフリカ、エジプト、チリ、ホリビアなどで、とくにインドのベンガル地方、ボンベイ地方、スリランカに多い。
日本では鉱石としての硝石の産出はありません。
そこで床下で、土と草などを混ぜ合わせ くさらせ、それを煮込んで結晶を取り出す素朴な製法で生産されました。
■硝石の生産方法の種類
1.古土法
鉄砲の伝来と共にわが国に伝わった方法で、その後、幕末まで全国の多くの藩で行われていました。
古い家の床下の表面の黒土を大量に集め、大桶に入れ、水を加え、含まれている硝酸カルシウムを抽出した。
浸出液を集め、加熱し、これを木灰を入れた灰桶に注いだ。この処理により硝酸カリとなり、濃縮、濾過等を行い、結晶化させ、粗製の「糠塩硝」を得た。
一度使用した土は10〜20年の後にしか使用できないために、大量生産には適さなかった。
2.培養法
五箇山で1550年頃より明治まで行われ、優れた品質の硝石を生産していました。
これが別記する製法です。五箇山、白川でのみ行われていた方法です。
諸説はありますが、培養法は他の地域で見られない方法であることから、五箇山で開発された方法と考えられます。
▲硝石製法
3.人造硝石法(硝石丘法)
幕末期に外国より入ってきた方法。
土に草及び人馬の糞尿等を加え、硝石小屋の中に小山を作った。
時々切り返しと糞尿と追加をした。
小屋を使用したのは、雨露にあてない事と小屋の温度を保つためであった。
この方法では、硝化反応は小山の表面の土のみで進行した。
4〜5年後、表面の土を掻き取り、硝石の抽出、精製をした。
「硝石製法」という書物があり、壮猶館(加賀藩の洋学、砲術、航海術の学校)の米積浄記により文久3年(1863)にかかれたものです。
人造硝石製法について記されています。
オランダの書物から翻訳されたものであることから 硝石製造法は西洋から伝わった方法であることが推察されます。
鉄砲伝来直後は硝石は輸入され、
次に五箇山のような培養法で人造硝石が作られるようになりました。
■化学反応
バクテリアの働きによる生産です。昔のバイオテクノロジー。
塩硝土から硝石になるまでを化学式で表すと
尿から出たアンモニアは硝化バクテリアの働きによって亜硝酸に酸化されます。
2NH3+3O2→2H2O+2HNO2
硝化バクテリアはこの反応でエネルギーを得て生きています。
酸素が必要なので、土中に空気を混ぜることが必要なのです。
できた亜硝酸は容易に酸化されて硝酸となります
2HNO2+O2→2HNO3
土中にあるカルシウム分と結合して、硝酸カルシウムとなる。
2HNO3+CaO→Ca(NO3)2+H2O
灰汁(炭酸カルシウム)が作用して硝酸カリウム(硝石)となる。
Ca(NO3)2+K2CO3→2KNO3+CaCO3
■塩硝の産地
互いに秘法とされた硝石製法技術も、軍の必需品ゆえにしだいに情報が広がり、全国的に知れ渡ってしまいました。
▲塩硝生産地
九州では薩摩、山口県周防、広島県安芸、 四国は愛媛県伊予、徳島県阿波、飛騨白川、長野県信濃。
関東では秩父に代表される武蔵、秋田県出羽最上地方、仙台地方など。
各地で作られたようですが、代表的なのは富山県五箇山です。
■塩本記
青木英通の「塩本記」の製法は技術の最も優秀なものとなっていました。
しかしこの伝書は拡散されず治枚のようだが、明治以前の硝石製法として最高の位置をしめていたことが今にして比較されます。
五箇山、白川での塩硝生産
400年前から明治初期まで盛んに作られ、加賀藩に年貢米の代わりとして納められました。
■材料
ひえ、たばこ、よもぎ、そば、さく、あさ、うど、よもぎ、むらたち、くさや(アカリ)、しゃき
蚕の糞、人の尿
硝酸植物
葉に根から吸収した硝酸イオンを蓄えている植物です。
例えば、イノコズチ、シソ、イヌタデ、ミゾソバ、ツユクサの葉には3-6mg/gの硝酸イオンが蓄えられています。
ヨモギの葉には硝酸イオンは僅かである。
煙硝の培養土に加えられたシシウド(サク)は硝酸植物と推定されます。
シシウドは農耕で肥料として利用されていました。
硝酸植物の干草を培養土に加える事により、硝石の収量の増加をはかったと考えられます。
土はほろほろした上田土、麻畑土。通気性がよい土です。
硝種
「硝種」という言葉があり、これを土に加えると硝石がよくできました。
これは前回の培養を行った土であり、硝酸菌が多数含まれていました。
■生産の歴史
塩硝製造が五箇山でいつから始まったのかを明確に記述する史料はないが、
天正13年(1585)五箇山が前田氏の支配下となり、慶長10年(1605)前田利長塩硝請取状にて初めて塩硝上納が確認されます。
1570年頃には技術が伝わっていたと考えられます。
明治初年頃の刊硝石の輸入によって塩硝需要がなくなり、しだいに廃業してしまいました。
■金額
加賀藩主前田利長は慶長10年(1605)から塩硝2000斤を五箇山年貢として納めさせました。
精塩硝は16貫目(60kg)を一行李といい、玄米7石が代価で買い上げられました。
白川郷での生産高は年1800貫内外でした。
米一石(5斗俵=20貫が2俵)の値段が銀50匁。
これと同じ金額で灰汁塩硝5貫415匁でした。
▲米一石と等価の灰汁塩硝
これぐらいの量の比率でした。
■生産場所
精製度が低い灰汁塩硝までは無数の農家で作られました。
精製をする上煮屋はごく少数の有力農民によって営まれました。
理由として、灰汁塩硝の買い集め資金、精製のための設備投資など自己資金が必要だったことがあげられる、
灰汁塩硝を作る小作百姓と塩硝確保を安定的に維持することが主な仕事で加賀藩御用塩硝の封印、運搬、他国出の手続き加賀藩との諸交渉などは上煮屋の総意で決定されなければならなかったことから、早くから組織化され株仲間制度が取られた。
また上煮と中煮は製造段階が似ているため、上煮屋は中煮屋をかねていました。
一般農家が灰汁煮屋、上層農家が上煮屋、中煮屋をしていまいた。
塩硝の生産工程
■工程1 塩硝土
家の床下に、深さ6〜7尺(1.8〜2.1m)の穴を掘ります。
場所は冬でも微生物の働きが期待できる囲炉裏の近く。
床板を上げて床下に出入りできるようにします。
▲床下の培養のための穴
深い穴を掘り、草や蚕糞を入れて微生物の力を借ります。
積み込みの時期は 6〜7月頃
1.最も下に稗(ひえ)ガラを切らずに、厚さ5寸(15.5cm)程 敷く。
2.土と蚕の糞を切り混ぜたものを一尺(30cm)程敷く
3.長さ5寸程に小切りした草を敷く。
4.2と3を繰り返しながら、敷板の下6〜7寸(18.2〜21cm)のところまで積む。
5.4の上煮、むしろやこもを乗せて雨風にあてぬように注意する。
▲積み込みの順序
切り返し
年に3回、野草、蚕糞や人尿などを加えながら、鍬で上と下を切り返します。
8月上旬にこの土を掘り出しモッコで敷板の上煮上げ、下に一尺(30cm)程残し 蚕糞などを混ぜて鍬で切りこなす。
その上に蒸草などを敷き、そのあとは、始めにしたように積み込む。
翌年からは、春夏秋の3度前述のように培する。
春培は、稗ガラ、ソバガラ、タバコガラなどを多く使い、夏培は、蚕糞を、秋培は山草の蒸培を使う。
このようにして4年程おく。
5年目から毎年塩硝がとれるようになります。
▲切り返し
1年に3回程度かきまぜる
■工程2 灰汁塩硝のつくりかた
(土たれ)
10月下旬頃、床下の塩硝土を運び出し、「土桶」に入れ、水を加えて一夜おきます。
▲灰汁煮の土桶
培養した土をこの桶に入れ、水を浸透させ、その浸透液を作る桶
▲抽出
翌日、ノミ口より「埋桶」の中へ水を抜きます。
「一番水桶」に汲み取り、さらに土桶に水を入れて二番水を汲み取っておき、一夜おきます。
これらをくりかえし行います。
水の色は薄赤く酒のようです。
土たれ済みの土は再び培土とします。
(灰汁煮)
「釜」に一番水を入れて、一石が3升(3/100)になるまで煮詰め、「小垂桶」(灰桶)の灰をとおして、「小垂溜桶」に受けとめます。
色は醤油のようになります。
▲灰汁煮
▲灰汁煮釜(あくにがま)
浸透液を煮つめるために使います。
(小煮)
翌日、この水を「小煮鍋」で3升が1升5合(1/2)になるまで煮詰めます。
▲小煮鍋
直径30cm程の小さな鍋で、濃縮された溶液を更に濃縮します。
「えさせ鍋」の土に木綿を敷いた、「そうけ」を置いて、ごみを取り除いた小煮の水を受けて一夜おきます。
▲そうけと敷木綿
▲木綿の布で漉してゴミや不純物をおおざっぱに除去します。
一晩たつと、あめ色をした塩硝の結晶が桶の内側につきます。
「えさせ鍋」の塩硝を乾かして、「せっかい」でこそげ落とすと砂のようになります。
これが灰汁塩硝です。
▲えさせ鍋
日常で使用する2升鍋。灰汁を添加させた濃縮液を半分ほどに煮つめる際に使った
灰汁塩硝 中煮塩硝 上煮塩硝
■工程3 中塩硝のつくりかた
ここからは精製工程です。
(中煮と洗いさらし)
▲「釜」に「手桶」4杯の水と灰汁塩硝24貫目(90kg)を入れてかきまぜると 溶解して赤壁色のにごり水になります。
▲煮立ったところで「ゴミ澄み桶」へ汲み取り、しばらくして桶のノミ口から出てきた水を「中煮溜桶」へ受け入れます。
▲3日程すると、溜桶のまわりに五寸釘ほどの結晶がつきます。
これを金のへらで起こし落とし、清水を洗いさらします。
これが、中塩硝です。
(中煮汁の煮詰め)
溜桶の残り水を中煮の汁といいます。
釜で半分になるまで煮詰めます。
この汁は再び煮つめの中に混ぜます。
▲煮つめは「煮詰桶」へ入れて一晩おきますと桶のふちに一寸釘ほどの結晶ができます。
このようにして中煮の洗い水を煮つめますと、さらに中塩硝をとることができます。
■工程4 上塩硝のつくりかた
(上煮)
▲「上煮釜」に手桶4杯の水を入れ、湯がわき立ったら24貫目(90kg)塩硝を入れえぶりで解かし、煮立ったところで「上煮えさせ桶」へ移します。
▲上煮えさせ桶の上に丸そうけをおき、「木綿」7枚と「中折紙」1枚をとおして釜の湯を上煮えさせ桶に汲み入れて7日程おきますと、桶のまわりや底に6〜7寸ほどのつららのように透き通った結晶ができます。
これが最上質の上煮塩硝です。無色透明の6角柱状の結晶でした。
▲さらに7日程おいて、「ノミ」と「木づち」で起こし取り、20日間程、天日で干し乾かします。
こうした工程を経て、上塩硝ができあがります。
▲上煮汁の煮詰め
残った水を上煮の汁といいます。
釜で半分になるまで煮詰めて、別の桶に取っておきますと、中塩硝がとれます。
■出荷
箱に入れ、こも、縄で荷造りして出荷し、歩いて運ばれていきました。
■流通経路
基本的には前田藩により買い上げられ専売品で、御用商人によって他領へ売りさばかれることもありました。
五箇山塩硝は、塩硝土作りから上煮塩硝に至るまで品質、目形について塩硝吟味人の厳しいチェックを受け塩硝を1個づつ封印しての上で上納されていました。
塩硝吟味人は上煮屋から選出され、その任務は、塩硝土作りの指導、灰汁塩硝作りにおける吟味指導、灰汁塩硝の買入高調査、上煮屋の製法品質の吟味、上煮塩硝の封印などでした。
▲塩硝木箱
できあがった塩硝はこの木箱に入れられ厳重に封印されてから出荷されました。
▲荷造りした塩硝箱
人の手によって消費地に出荷されました。
■保存
五箇山塩硝は金沢土清水(つちしょうず)塩硝蔵へ運ばれて火薬に製造されていました。
危険物なので、郊外に焔硝蔵を作って保存しました。
焔硝蔵の構造は各地で異なってします。
大阪城の焔硝蔵は石造りで現在でも残り、有名。
津山・忍等では古墳の玄室を利用。
庄内では平地へ堀と土手で蔵を囲み、
秋田では山の尾根にU字形の土手の中に3棟を建てたり、
徳島では河の合流点の州を広く敷地として、土手は蔵のそばには築かなかった。
たいていの藩では、蔵は2間×5間程度で、火薬は木箱へ10貫入り170箱位入れている。
▲焔硝樽
硝石から作られた黒色火薬を入れるための樽です。
▲仙台藩越路山焔硝蔵平面図
元禄5年5月26日鍬初め。
四方に土手をまわした2棟の中央の土手が残っています。
後はすぐ山です。
参考資料
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genkou/index.html
http://www.pref.kagoshima.jp/home/bunshinka/kira/e1050202.htm
http://www.rekihaku.ac.jp/koohoo/journal/no126/rekishi.html
http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/kaizoku/teppo.html
http://www.spacelan.ne.jp/~sakiur-k/java/ro.htm
http://www.city.sendai.jp/izumi/soumu/syasinkan/meisyo.html
http://www.geocities.jp/irisio/bakumatu/arms.htm
2008年2月27日 清水 健一
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