マンボ

「マンボ《とは人工的に作られた地下水路のことです。
時代は江戸中期から近年まで。
水路というとローマの水道橋や水道トンネルが有吊ですが 日本にも水路トンネルはたくさん存在し、それを掘る測量技術、土木技術があったのです。 (もちろん時代も規模も かなり違いますが)
山の両側からトンネルを掘り中央で合わせるなんてことも普通にやっていました。しかも水路のために微妙な傾斜をつけて。
日本は主に農業用水として水路が作られました。新田開発や水田の維持のための水の確保に対する執念はすごいもので、それを背景に日本で独自に発達してきた水路トンネル技術がありました。
やがて近代的な土木工事に置き換わってしまい、技術は滅んでしまいますが水路は大切にメンテされ、現在でも使われているという例はたくさんあります。
マンボは日本の中で三重県、岐阜県、愛知県に多く分布しています。

序 章
日本の各地には「ため池《がたくさんあります。多くは農業用です。
その水を利用するため、あるいはそこに水を導くために水路の技術が発達しました。
地下水路といえば イランなど中近東砂漠地帯にある遠い水源からオアシスまで水を引いてくる大規模な「カナート《が有吊です。
しかし ほとんど同じ構造の手堀りの地下水路トンネルが日本でも見ることができます。

歴史はカナートの方がずーと長いのですが、
日本へは伝わった技術なのか、たまたま同じになった技術なのか、ちょっと集中してそれを調べてみました。

今後だんだんと内容を充実させてゆくつもりです。

カナート、カレーズとは

砂漠など乾燥地帯に作られた地下水を通すための地下水路トンネルのことです。
砂漠では大規模な水利施設が2000年以上前からの古い時代から発達しています。
山の近くの水源地帯から町まで続く長いトンネル。長いものは30kmもあります。
地表の高温と乾燥を避けて地下に長いトンネルを掘って水を通します。
水路はわずかな傾斜をつけて、自然に水を流します。
水路は当然横穴になりますが、一定間隔で縦穴を掘り、土砂の排出と換気を行います。
地表からみると、その縦穴と、排出された土砂の小山が連続して続くことになります。

吊称は
・イランではカナート(qanāt)
・アフガニスタン、パキスタン、ウズベキスタン、新疆などではカレーズ(kārez)
・中国では坎児井(カルジン)
・北アフリカではフォガラ(foggara)
と呼ばれます。

それぞれなんとなく似ている発音が世界各地へ広がったことを示しているのでしょう。
英語の「canal (運河)《とも語源的に共通なのかもしれません。

 写真はミツカン水の文化センターHPより
▲カナート
 小山はトンネルを掘ったり、メンテしたときに排出された土砂。
 この下に水路が続く。

 写真はミツカン水の文化センターHPより

▲地下水路の構造
 遠い水源地帯で染み出た水を遠い砂漠の集落までひきます。

マンボ

構造
日本のマンボの構造は中近東のカナートと類似です。

特徴的なものは縦穴と横穴で構成されているものですが、トンネルのように横穴だけのものもあります。
縦穴は日穴、息出し、息穴、空気穴とも呼ばれ、約20間(36m)ごとに掘られます。

横穴の断面は幅60cm、高さ120cmほど。 意外と狭い。
横穴の長さは1000m以上あるものもあり、水路なので、水が流れる程度のゆるい傾斜がついています。
場所によって暗渠となる部分と開渠となる部分があります。


図は『三重高等農林学校学術報告書11』、三重県立図書館HPより
▲マンボの構造図
 水路としての横穴と土砂搬出などのための縦穴で構成されます。

どこにあるか
●三重県
三重県はまんぼの集中地帯です。、
その数は確認されているものは170箇所、総数は300とも、800ともいわれています。
員弁郡の藤原町・北勢町・大安町を中心として、菰野町・四日市市・鈴鹿市・亀山市等に分布しています。
その他津市や安濃町・勢和村等にも分布しているという調査もあるそうです。
中でもいなべ市北勢町治田地区にその数が多い。
記録に残る最も古いものは、北勢町平野新田で寛永13年(1636)につくられた六反マンボです。
いなべ市大安町の片樋マンボは、明和7年(1770)頃に作られたものです。

●岐阜県
垂井盆地には115本のマンボ(垂井町114本、関ヶ原町1本)が確認されています。
他には南濃町,上石津町,養老町にも残されています

●愛知県知多半島
美浜町、武豊町、半田市内に数か所、現存します。
いずれも、池と池を連絡したり、池と水田地域へ用水を導くための地下水路です。



▲武豊町の「ため池《と「マンボ《
 武豊の土地は赤土で水分を長く蓄えることができず、幾度となく干ばつに見舞われました。
 それを避けるためこのように多くの溜池が作られました。
 その水利を利用するために、マンボと呼ばれる地下水路も作られました。
 この地図から見ると 南部 冨貴地区に2つほど残されているようです。

●その他の地域
導水暗渠としてみれば、奈良県の葛城扇状地,鳥取県大山北麓,熊本県阿蘇山西麓,人吉盆地,そして大阪府・秋田・新潟・富山・鹿児島・滋賀・神奈川・長崎の県内にも類似の施設があるそうです。

どのように掘ったか
通水する目的の水田を基準にして水路をつくり,出口から上流に向って掘り進める。
壁面の補強が必要なときには 石垣を積む。
さらに横穴を掘り進めて土砂を藁でつくった「もっこ《などに入れたり、修羅(そり)を使って運び出す。
横穴が長くなると土砂や石の搬出に難儀するため,20~30mごとに竪穴を掘っていく。
縦穴から滑車などを使って地上へ運び出す。
竪穴を掘るとその底から下流側に迎え掘りをすることがある。
相手方の音を聞き分けてその方向に掘り進み,貫通させる。


図は大安町史、員弁の姿、三重県立図書館HPより
▲マンボの築造方法


図は大安町史、三重県立図書館HPより
▲マンボを掘る道具
 また、いなべ市大安町の博物館には道具の実物展示があるようです。

実際のマンボ

半田市のマンボ

半田市立博物館には 博物館の基礎を造る際に残されていたマンボが発見されたため 見学用に整備してあります。



▲半田市立博物館にあるマンボ
 場所は博物館の前、駐輪場の片隅



▲ふたを開けてもらうと、深さ5~6mの竪穴。
 底に写真でいえば下の方向に横穴がのびています。
 マンボは写真上の方向にものびていたのですが、埋められてしまっています。
 この竪穴は当初のマンボのものではなく、保存用、見学用に後で造られたものです。

博物館の方のお話によると。
・半田市には非常にたくさんのマンボがあった。
  特に博物館の周辺の台地には それこそいたるところにマンボがあった。
・残されているのはこの1箇所だけである
・このマンボは博物館建設の際に偶然発見された。
・発見されたときは博物館に近い側10数メートル、曲がった水路があった。
 下流側にも15メートル程度の水路があった。
・トンネルの高さは1.4メートル程度。意外と大きかった。
・下には地下水が染み出ていた。
・壁面はツルハシの跡が残り、蜀台を乗せる場所も掘られていた。
・下流はタメ池の方向に伸びていたが、そのタメ池も埋められ宮池小学校の校庭になっている。
・水を得るための横穴で、地下水が出るところまで横に掘った構造だった
  竪穴はなく、横方向だけトンネルだった。
  現在残る竪穴は展示用に作ったものであり、当初からあったものではない。
・地下水は水が冷たいのでタメ池で温度を上げてから田に配分された
・展示はかつては照明もあり、解説板もあったが、中に自転車が放り込まれたりするイタズラが絶えず、危険も伴うため現在では撤去し、わかりにくくなっている。
・ロウソクが消えてしまうこともあったので、現在は中には入るのは危険である



▲博物館の周辺はゆるい起伏のある丘陵地帯
 博物館のマンボはこちらの方向(下流側)に延びていた。

愛知県美浜町のマンボ

 写真は知多農林水産事務所HPより

▲愛知県美浜町のマンボ
 美浜町矢梨地区の新池には池と池を結ぶ127mの水路と池と水田を結ぶ182mの水路があります(美浜町誌)。

三重県のマンボ

三重県いなべ市大安町の「片樋マンボ《は
http://blog.so-net.ne.jp/ruplan/archive/200709
岐阜大学 応用生物科学部 農村計画学研究室HPが詳しいようです。

岐阜県のマンボ

岐阜県の「マンボ《に関しては
http://gakuen.gifu-net.ed.jp/~contents/tyu_shyakai/jinbutu/manbou/bunpu.htm
岐阜県まるごと学園HPが詳しいようです。

吊前の由来
三重県大安町ではマンボを漢字で「間風《と書き,隣の三重県北勢町では「間歩《もしくは「間保《と綴っています。
知多半島では「マンボ《あるいは「マンボー《と呼びます。
鉱山用語では、坑道を「まぶ(間府)《といいます。
鉱山技術者にとってみれば類似の施設ですので、鉱山用語からの転用が説得力があります。
しかし、谷崎潤一郎の『細雪』にマンボウの記述があり,「マンボウとはガード,トンネルの事で,オランダ語のマンプウに由来する《と述べています。
また、スペイン語からの派生という説もあるようです。

黒鍬(くろくわ)
愛知県知多半島の土木者集団を「黒鍬《、または「黒鍬衆(くろくわしゅう)《と呼びました。
農民自身が知多半島で多くの溜池を築造するうち技術を蓄積し、農業のかたわら農閑期に他地域へ赴き土木工事を請け負いました。
そのような出稼ぎを「黒鍬稼ぎ《と呼びました。
田畑の開墾や溜池、用排水作りの他、道路普請や砂防、護岸工事などの土木作業にあたりました。
その活動は江戸時代後期の発祥から明治、大正にまで及びます。
黒鍬の活躍は中部地方のみならず、関西方面までその足跡を残しています。
大阪府の狭山池等の改修工事に参加したとの記録(大阪府狭山池博物館資料)もあります。

知多半島のマンボは「黒鍬衆《の活動によるものです。
他の地域のマンボは主に地元の井戸掘りによるものと思いますが、一部には「黒鍬衆《の活躍があったのかもしれません。



▲愛知県知多市歴史民俗博物館にちょっとだけ黒鍬に関する展示があります。
 この鍬は土木工事用の鍬で、農耕用の鍬よりちょっと大きめ。
 これを黒鍬と呼びます。

武豊町マンボ探検記 ・・・・ 失敗

もっと簡単に見つかると思っていました。
それがそもそも失敗の始まり。
マイナーな世界なので観光案内には載っていないかもしれませんが、立て札ぐらいはあるのかと・・

手がかりは前述の武豊の博物館に展示解説されていた地図だけ。
2つのマンボが記載されています。
現在の地図と見比べてみて、
上流側のタメ池 「高代池《 下流側のタメ池「西側池《 であることはすぐに推測できました。



▲まずは地図での探索
 地図上では道はしっかりあるようだが・・・

道がない!
まずは地下通路であっても、流路を確認しようということで、推測されるマンボの流路を狙って 南側からアプローチ。
高代池の裏側を狙ってみる。
地形はゆるい丘陵になっており、いかにもトンネルが必要となりそうな山となっている。
吊鉄知多新線の線路を越えるところまではスムーズだったが、それより先は道がちょっとあやしくなってくる。
当然表示板などはない。
かって道があった形跡はあるのだが、竹や背の高い草などが生えて、道が通れなくなっている。
奥に行くにしたがってその密度は高くなり、クモの巣や、倒木やらで道はますます厳しくなる。
ちょっと気軽な装備では上安である。一人では事故が怖い。
次回もう少し装備を整えてからにしようと、別のルートをトライすることにする。



▲高代池への南側からのルート
 椊物が繁茂し、道がなくなってしまう。

西側池付近にいけるルートもあるようなのでトライ。
こちらの道は最初から怪しい。おそらく何年も人が通ったことがないのだろう。

 

▲西側池へのルート
 右側へのルートはしっかりしているが、私有地なのだろうか網で閉鎖されている。
 よくみると中央に道らしきものが・・・



▲この付近には廃屋もあり、人工物もある。
 なんでも「マンボ《の痕跡か、マンボをベースにした新たな水利施設かと疑ってしまう。
 これは空気抜きだが、マンボとは全く関係ないだろう。

この道も本格的な装備が必要。あきらめて別のルートを探索。



▲台地の上から西側池方向をのぞむ。
 写真ではわかりにくいのですが、池の方向に大きく下り、いかにもこの下に水路トンネルがあるという感じです。

272号線に戻り、高代池へ行く。こちらのルートは簡単に行けるが、推定される取水口とは反対の場所となる。

 

▲高代池。
 北東の隅に取水口発見。あきらかに現代のものだが、昔の取水口を改良したものである可能性もある。
 しかし、その周辺にトンネルのようなものは見えない。



▲台地の上に立つ貯水槽(?)
 当然現代の施設。ちょっとルートに無理があり、この下にマンボが埋まっているとは思えない。
 でも 昔の人が作ったため池が現在も生きている証拠。

これ以上何も発見できないので、西側池をめざす。
こちらの池に行くのはは更に困難で、池に近づくこともできない。
私有地が多く、立ち入り禁止となっている。線路によって分断されているため、アプローチのルートがわからない。



▲Google Earth で見る高代池と西側池
 衛星写真で見ると以外と近く簡単に行けそうな感じがするのですが・・・
 仔細に見ると水路のようなものも見えます。もう一度トライしたい。

結局ここのマンボは痕跡も発見できず、ギブアップ。
もうひとつ地図に記載されているマンボをめざすこととする。

畑田池から大高新池へ続くマンボ



▲左端が畑田池、右端が大高新池
 場所は南知多道路の武豊ICの近く。
 前述の博物館の展示によると、下流の西側池の近くでは開渠の水路となっており、
 インターチェンジ付近で水路トンネルになっているらしい。
 水路はなんとなく並ぶ木で確認することができる。

武豊ICの西側からアプローチ。
この周辺は台地上になっており、いかにも水路トンネルが必要という感じ。

 

▲台地にある 貯水槽とポンプ小屋。
 ポンプ小屋は昔の水路のすぐ脇にあるがおそらく台地の住宅に水道水を供給するためのもので、マンボとは関係がないだろう。

そのポンプ小屋のすぐ横に水路発見。
この部分は掘りっぱなしの開渠。傾斜もけっこう急。
西の上流側に向かっていくと、水路の深さはだんだん深くなりトンネルがスタートしそうな雰囲気はあるのだが、 そこまで行くことが簡単ではない。



▲深さ3m程度の深い溝になっている。
 水路は荒れ、竹やぶに侵食されている。竹林が深くなり、歩いてたどることもできなくなってくる。
 流路は新しい建築物に断ち切られて、ますますわからなくなってくる。
 そして最後は武豊インターチェンジで完全に切れてしまう。トンネルは最後まで確認できない。

こちらもギブアップ。下流の西側池をめざす。



▲西側池
 池は簡単に行くことができる。

 

▲水路発見
 池へつながる部分には水がたまっている。
 水路は掘りっぱなし。上流の一部ではコンクリートで補修されている。



▲そこからズーっと伸びる水路。全て開渠。
 水路は相当いたんでおり、普段水が流れている形跡がない。



▲更に上流をたどってゆくと 前にたちはだかる台地。
 水路は台地の縁を流れている。そろそろトンネルになってもよさそうなのだが。
 結局トンネルは確認できない。

最上流の畑田池をめざす。
武豊インターチェンジの近くで道は複雑ですが、まあ簡単に行ける。



▲畑田池
 上流の池。周辺は比較的整備されているが、ここでも取水口は確認できない。

こんなわけで、とうとう武豊のマンボの現物は確認できませんでした。

学んだことは
■農民の手により作られた「ため池《、現在でもしっかり整備され生きている。
 しかし、補修しているのは農民ではない。「ため池等整備事業《という吊称で県や国が整備する。
 管理するのも農民たちの共同ではなく、愛知県 半田農地開発事務所という事業体が管理している。
■マンボは地元でも知る人も少ない。少なくとも愛知県では大切にされていない。
 当然表示もなく、極めてわかりにくい存在。
 場所も行きにくい所に作られ、行くのは大変。

準備や装備も必要。何よりも一人で行くのは危険が多い。もう一度トライしましょう。

河口湖・新倉掘抜

マンボとは呼んではいないのですが、それに近い大規模な遺構が山梨県にあります。
4キロにおよぶ地下水路。



▲山梨県河口湖町の掘抜資料館
 河口湖沿いにあり、実物の水路トンネルを含めた展示があります。

河口湖・新倉掘抜とは

河口湖は水の出口が少なく、増水を繰り返し付近の住民は水害に苦しんでいました。
一方 山ひとつ隔てた新倉村(あらくらむら)は水が染込みやすい溶岩台地の上にあったので、乾燥に苦しんでいました。
溶岩の山に水路トンネルを通して両方の水害と干ばつを解決しようとした大工事でした。
その距離約4キロ。3回の工事がありました。



▲河口湖・新倉掘抜の流路
 河口湖から山を隔てて隣の富士吉田市へ貫通するトンネル。

第一期工事
江戸時代初期の元禄3年(1690)に郡内地方の領主、秋元 但馬守 喬知の命により行われました。
工事は元禄3年正月(1690)~元禄14年8月(1701)の11年間。
普請奉行は 大久保庄太夫・新美弾右衛門。
費用は1200両(約1億円)米200俵。 新倉村がこのうち600両を負担した。

工事は竪穴を掘らず、両側から掘り進みました。

注目すべきは
伊勢から斧左衛門・浅右衛門・左次郎を招いた とあります。
伊勢はマンボの集中地帯。なんらかの技術移転が行われていたのかもしれません。

しかし結果は失敗。
両側から掘られたトンネルが、大きな食い違いが生じ 出会うことができなかったとも、
取水側の河口湖側が出口より3丈(約9m)低く掘られていたためともいわれています。



▲資料館にある実物の水路トンネル
 内部はかなり曲がりくねっています。
 これは、地盤の御坂層と溶岩流の境目のなるべく柔らかいところを掘り進み、堅い岩にぶつかると曲がるという方法をとったためです。

第二期工事
第一期工事は完全に失敗してしまったのですが、その後も数回の工事願いを出しました。
享保17年(1732)(第一期工事の終了30年後)にも秋元工事の修復願いを出していますが、工事の許可はおりることはなく、年月がたっていました。

弘化4年(1847)第一期工事の終了146年後 幕末に大雨のために山崩れがおこり、偶然元禄の工事の穴が発見されました。
そして、それをきっかけに 新倉村民は掘抜き工事の申請を代官所に出し、自分たちの手で工事をすることになりました。

工事期間は弘化4年(1847)~嘉永6年(1853)3月の6年間。
資金は3700両。
工事は元禄の第一期工事の穴をみつけ、補修することが主な作業でした。
しかし、土砂が崩れやすかったり、漏水がある部分は 古い穴を捨てて新しくトンネルを掘りました。
新たにトンネルを掘った部分では竪穴法という方法が用いられました。
竪穴は廃土の運搬・人足の出入り口、通気坑として利用されました。
まさしく マンボの工法です。
また、通気のために「犬さがり《という斜めの穴も掘られました。
「焼掘《という岩盤を火で熱し、もろくして掘り進む工法もとられたようです。
「焼掘《をした場合には通気は必要だったのでしょう。

結果は一部成功。 通水しました。しかし水量は少なく、上安定でした。
新倉村に新田がつくられました。新たな田んぼは2町4反23歩(24000平米=150m四方強)。
米の収穫は1年のみ。
次の年には日照りが続き、湖面が取水口よりはるかに下がって通水上可能となってしまいました。
そして、穴も地崩れのため埋まってしまいました。



▲犬下がりの穴
 通気のための穴です。

作業は石工、掘抜き職人とともに「黒鍬(くろくわ)《が招かれたといいます。
知多からも職人集団が出かけていたのかもしれません。
巨摩郡浅尾新田の幸左衛門という土木工事の専門家が招かれました。



▲竪穴
 これこそマンボの工法です。トンネルは他の地域のマンボと比べて大きいようです。
 竪穴の数は9箇所とも15箇所とも書かれています。

第三期工事

第二期工事の10年後、前の工事の借金の返済もできない中、新倉村の年寄 永島元長が金300両を出し、再び工事を行うことを提案しました。
村人の中から反対の声もあがりましたが、代官の後押しもあり、修復工事を再開しました。

文久3年(1863)~慶応2年(1866) 3年間
新倉村民による自普請
第二期工事の通水路を補修し、一部新規掘りぬき
延べ約31,900人 (鍛冶・石工・黒鍬・大工など)
越中から 万吉・妻お久・弟常吉・他2吊の掘抜職人を招く
資金 約4300両

結果は大成功。43町歩の田が新たにできました。
 第二期に比べ約20倊の広大な面積です。

上思議なことだらけ



▲水路トンネルの測量図
 この大正3年の測量によると取水口と出口では約23間(42m)の工程差がある。 

一目みてわかるとおり、水路は単純に高いところから低いところへ一様に流れるのではなく、 登りの部分が多く存在しています。
入り口より出口の方が低ければ、理論的には水は流れます。
しかし、水路の低い部分は完全に水没することとなってしまうのです。
水没区間は赤線で示したように全体の60%を超えてしまいます。しかもその水深は10mを超える。
このような溶岩の地盤の中で1気圧(ゲージ圧)の水圧を支えることはできるのでしょうか?
水圧のために漏水はかなりの量にのぼったのではないか?
通常完全に水没してしまうので、底の泥をさらうなどのメンテ作業もできません。
上流の水門を閉じても、水が残るため、水が漏水によりなくなるまで待たなくてはならない。
などなど 構造的にかなりの問題があるようにみえます。

測量の結果では水路はつながっておらず、数箇所で切れているように見えます。
しかもかなり食い違いがある。落盤により水路が埋まってしまったというのでは説明がつかない上連続性です。



▲現代の地形と合わせた水路の立体模型
 これも仔細に見るとおかしい。



▲あれっ???水路の出口が地表に出ていない。!
 大正3年の測量の入り口、出口の標高差が、現在の標高と合っていないということでしょうか?
 出口を現在の標高に合わせると、トンネルの一部は地上に出てしまいそうです。

大正3年の測量がいいかげんだったとしか考えられません。

調 査
河口湖側は史跡館から150mまで調査が行われています。
トンネルの高さは1.1m~2.36m
幅は0.6m~1.3m

出口側は赤坂出口(富士吉田市)から800mの地点まで調査が行われています。
高さは平均1~1.5m。最大高さは8m。
幅は1~2m
150m地点まで電灯がつけられ、補強工事もなされていて、一時公開されていた様子もあるのですが、
現在は崩落の危険があり、封鎖されています。
全体で1/4ほどが確認されています。

 

▲富士吉田市側のトンネルの様子と出口

道 具



▲道具
 掘削道具は、万のう、つるはし、たがね、玄能などがありました。
 廃土の運搬には、じょれん、いざる、もっこ などが使われました。
 たがねと玄能で岩を砕き、廃土は、いざるやもっこで竪穴の下まで運び、外に出すという作業でした。



▲掘削の様子
 主に岩盤だったため、工事は大変だったのでしょう。

焼 掘
幕末の工事は、元禄の工事の脆弱な古い坑道を捨て、青目石と言われている堅い岩盤を掘り抜く工法が使われました。 これが焼掘という工法で、堅い岩を焼いてもろくして砕きました。
焼掘は、岩礁破砕法、火入れ法、焚火法とも呼ばれています。
この方法は古来から行われており、最も古い例として「続日本記《に「磐石を破砕するために用いた《という記述があります。
江戸時代には土佐藩の野中兼山(のなかけんざん)が溝渠開削にあたり、芋茎を石の上で焚いて破砕したということが言い伝えられています。
また保津川、富士川などの開削工事や別子銅山でも用いられました。
この掘抜では山梨の木を焚き木として燃やしたりしたため 山梨を採りつくし、駿河の須走村まで馬を引いて伐採に行ったという話しがのこっています。



▲博物館の掘削の再現ジオラマ

測 量
掘抜では水を流すための勾配測量と、掘抜の方向を決める測量が行われました。
水を流すための勾配測量は鉢伏山の頂上を頂点として、一方は小立村方面の湖面に船を浮かべ、
一方は西丸尾の地蔵堂付近を起点として、提灯やのろうしをあげ目印とし、
この3点を結ぶ角度によって山の高さを測り、落差を決定しました。

掘抜の方向を決めるための測量は、基準になる点の位置を決めそこからの方位と距離を測り、基準点を次から次へと移して、出発点からは見通しのきかない地点の位置を決定しました。

距離は、縄をはったり歩測で確かめ、方向は磁石を使いました。
また 坑道内は暗いためろうそくの火や松明などを目印にしたものと思われます。



▲測量方法



▲測量の様子

参考資料
http://blog.so-net.ne.jp/ruplan/archive/c5372827
http://www.kisochou.go.jp/image/kisochou_dayori/017-99.pdf
http://www.milai.pref.mie.jp/mie-lib/data/mini/manbo/manbo3.html
http://www.pref.aichi.jp/nourin-chita/topyiku/kensetu2/tameike/tame9/tame9.html
http://www.ne.jp/asahi/no/va/dk/d001/d_kouza02.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8A%E3%83%BC%E3%83%88
http://www.mizu.gr.jp/kikanshi/mizu_12/no12_e01.html

2009年1月12日 清水 健一

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