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菱垣廻船と樽廻船 1/2

江戸時代から明治にかけて 太平洋岸を日本の大型帆船が走っていました。
ベザイ船、千石船と呼ばれる船です。しかし明治以降に優れた西洋の船に置き換わっていったと信じられています。
決してそんなことはなく 非常に合理的で高性能な船だったのです。歴史の中で輝き、やがて消え去り埋もれてしまいましたが、その痕跡は各地に今も残されています。

菱垣廻船の復元船が展示されていた大阪市の「なにわの海の時空館」が2013年に閉館してしまいました。東京の船の博物館も実質的に閉館、復元された北前船の気仙丸も震災、津波で大きく損傷してしまい博物館でそれらを知るチャンスは大きく減ってしまいました。
私が菱垣廻船に「はまった」のもこのすばらしい「なにわの海の時空館」のおかげだったのですが、その追悼も兼ねてまとめておきましょう。

弁才船(べざいせん)

千石船と呼ばれた、江戸時代から明治時代にかけての和船です。

弁才船というのは、中世末期から瀬戸内海を中心に発達した日本独特の大型木造商船です。
値段も相対的に安く、帆走専用で効率も良かったため 全国的に普及しました。
江戸時代前期以降、国内海運の主役として活躍しました。

弁才船(べざいせん)は弁財船とも弁済船とも書きますが 総称してベザイ船と表記されることが多いようです。
名称は 中世、運漕をつかさどった弁済使の名称が転用されたという説と舳在船(へさきがある船)からきているという説があります。
弁才船の船乗りらを弁財衆または弁財者と呼びました。
千石船という名称は米を千石(150重量トン、約18万リットル)積載できるところからきました。
「北前船」は構造的にはベザイ船に含まれます。航路が異なり主に日本海、瀬戸内海を航行していました。

弁才船は良く知られていますが、誤解も多く
・風上への航走はできなかったので追い風でしか走れなかった。
・千石船は幕府から禁制されたので表向きは建造されなかった。
・実際にはあまり使用されなかった。
・明治になって西洋の船が入ってくると競争に負け、造られなくなった。
というような記述を良く目にしますが、これらは全て間違いです。

弁才船の航路はもっぱら沿岸航路が中心でした。沿岸とはいっても陸が見えない沖合をも航行しました。
国内沿岸の物資輸送に従事した荷船を廻船(かいせん)と呼びました。

外国への渡航は禁止されていたのでほとんど記録はないのですが、高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)は北前船を使ってロシアとの密貿易が疑られるように実際には一部で行われていたと思います。

弁才船は、総称。船の形から一般的な上方(かみがた)型弁才船と 「北前船」と呼ばれる北前(きたまえ)型弁才船の2種類に分けられます。
「菱垣廻船・樽廻船」は、船の形からみると上方型弁才船に含まれます。

菱垣廻船(ひがきかいせん)

長い歴史を持ち弁才船を発達させた代表格です。

胴(どう)の間(ま)に荷物を山積みするために舷側(げんそく)の垣立(かきたつ)が高いという外観的な特徴を持ちます。
胴(どう)の間(ま)とは船の中央部、一段下がった部分。垣立(かきたつ)とは船の横板の上部部分です。
北前船で多く見られる甲板上に はみでた荷物を覆う「蛇腹垣」と混同した記述もありますが、正解は船体外側に装飾的に付く「垣立」の菱形の模様からきた名前です。



▲菱垣の名前の元になった垣立の装飾

この「垣立」も荷物を多く積むための手すりと書いたものもありますが、これも間違いで 荷物を積む「胴の間」は舷側の壁(ハギツケ)で構成され 垣立はその外側に付く装飾と補強の機能を持つ部品です。

その垣立の装飾菱垣は 輸送船の同じグループに属するという印の「看板」のようなものです。

 

▲標準的弁才船の垣立と菱垣廻船の垣立の比較
 18世紀末〜19世紀初期



▲19世紀初期の菱垣廻船と表菱垣廻船
 菱垣の大きさ、形状は一様ではなく、いくつかあったようですが、ブランドマークですのでグループの船には必ずついていました。



▲浪華丸
 大阪市の「なにわの海の時空館」には実物サイズの忠実な復元がありました。
 全長29.4メートル、船幅7.4メートル、深さ2.4メートル。
 帆柱の長さ約27メートル、帆の大きさは18mX20m、荷物の積載可能量は 千石積ですので1000x0.15トン=150重量トン。

船体の形は樽廻船とほとんど同じ、航路も大坂と江戸を結び同じですが積み荷が異なっていました。
菱垣廻船は食料品から日用雑貨、各種道具類、製品素材などを扱いました。
比較的軽くてかさばるものが多かったので、荷物をうず高く上積みしていました。

菱垣廻船の発生

元和5年(1619) 泉州堺の商人が紀州富田浦の250石積みの廻船を借り受けて、大阪〜江戸への日常物資を運送したのが始まりです。
もともとは瀬戸内海にあった船がベースになっています。
廻船という名前は貞応2年(1223年)に書かれた廻船式目(しきもく、箇条書きにした船法度、海事法規)に見られ、商船の意味に用いられました。
やがて 大坂・伝法に廻船問屋が成立。
1624年には大阪北浜の和泉屋平右衛門を皮切りに次々と江戸積の廻船問屋が開業しました。

元禄期の桧垣廻船

元禄期に入り、江戸の物資消費量が増大すると、廻船はしだいに大型化し、元禄年間には350石積が主力となりました。
帆も筵帆(むしろほ)から木綿帆に改良されました。
構造も改良され、櫓(ろ)を有する初期のものから、帆のみで航海するようになりました。

19世紀の桧垣廻船

江戸の物資は海運に大きく依存していましたが、天下の台所大坂から輸送されるものが多かったのです。
効率を求め船は大型化し 1000石積級が普通になり やがて2000石積のものも現れます。

しかし、天保12年(1841)の改革で株仲間が解散させられると、菱垣廻船の特徴だった「菱垣」もそれ以降の新造船からは取り付けられなくなりました。



▲菱垣廻船の名前の由来となった舷側の菱組(ひしぐみ)装飾
 垣立(かきだつ、かきたち)とは和船の左右の船べりに、欄干(らんかん)状に作られた垣のことです。

桧垣廻船が運んだもの

船の積荷は酒、油、醤油、砂糖、鰹節、紙、薬種、木綿、などの生活物資を輸送しました。
船の所有者は船主。
荷物を依頼するのは荷主である各業種の問屋。
荷物をまとめ、手配をしたのが廻船問屋。
船の運用を行うのは主に雇われた船頭です。
船頭が船主を兼ねることもありました。

商品問屋から託された荷物を運賃を取って運ぶ「運賃積み」が基本でした。

釘類  砥石  櫃物(ひつもの)銅類   竹皮  鉄物  畳表
糸物  米   砂糖  古手  痛物類  線香  昆布  タバコ
素麺  水油  染草  薬種  ろ木   蝋   糠   絵具
南京綿 乾物  鰹節  スキ  チリ紙  半紙  青筵  茶
巻縄  木綿  塗物類 傘入  篭類   小間物 繰綿類 箱物
瀬戸物 

大坂から江戸に運ばれる荷は「下りもの」と呼ばれました。
大坂から来るものは高品質なもの。地元やそれ以外の地域から来るものは悪いものということで
今日いう「くだらない」(価値がない、つまらない)の語源であるといわれます。



▲享保11年(1726) 江戸中期
 江戸に入津した商品に占める大坂からの商品の割合



▲幕末 慶応3年(1867)の九店差配廻船(くたなさはいかいせん)による輸送
 酒が少ない、木綿も少ない。砂糖や紙が増加しています。

樽廻船(たるかいせん)

樽廻船は菱垣廻船から分離独立した 樽物を主に扱った商船で、菱垣廻船のライバルです。

樽船(たるぶね)とも呼ばれます。
構造的な違いはほとんどありません。重い酒樽を船倉に積むため船体が深くなるように改良されていきました。
もちろん垣立の菱形模様はありません。



▲樽廻船の構造

樽廻船を特徴付けているのは構造ではなく 積荷です。

機能上の樽廻船の成立

樽だけを専門的に積み込む船は江戸初期からありました。
正保年間(1644〜1648)に摂津国伝法から樽積みの酒を廻船で江戸に積み下したのが起源とされます。
この頃 既に伝法村には「小早(こはや)」と呼ばれる船がありました。
伊丹の酒問屋がこれを調達して輸送したのですが、伊丹の酒問屋の援助によって伝法に廻船問屋が開かれ盛んになりました。
やがて大阪にもこの船の運送を取り扱う問屋が起こり、積出港も兵庫や西宮まで広がり、拡大しました。

運用上の樽廻船の成立

荷主である多くの業種の中で酒問屋が不満を持っていました。
酒は重くかさばるので陸上交通は無理。儲けも大きく扱い量も多かったため海運のニーズはありました。
そして腐りやすかったためなによりもスピードが要求されました。
江戸の酒問屋の蔵に入って何日以内に白濁すると、つまり腐ると、それは製造元の酒蔵の責任という約束がありました。

@荷物を積み込む際に 混載であると、重いものから考えながら順番に積み込み、また固定に手間もかかります。
 従って混載は積み込みの時間がかかるため、港に停泊する期間が長くなり、下に積まれる酒は腐敗の被害が大きくなります。
A軽くても混載荷物を高く積み上げるため船の重心が上がり、混載船は天気が悪くなると船の被害も大きくなります。
 嵐になれば 積んである荷物のうち甲板の上に積んである軽い荷物が真っ先に捨てられるので、船倉の中の酒は助かる率が高いのですが、損害は均等に持たなくてはなりません。
 酒だけ積んでいれば被害はなかったのにという 酒問屋の不満は高まりました。

享保15年(1730)、大海難事故を契機として酒問屋が十組問屋から脱退し 独自で廻船をしたて、酒樽だけを積み込み輸送を始めました。
これが「樽廻船(たるかいせん)」です

「菱垣廻船は荷嵩に相成り候故、荷打ち破損等も多く、樽廻船は荷嵩み申さず候故、格別入津も早く、弁理よろしき旨世上にて申し候(『海事史料叢書』第二巻)」とあります。

樽廻船と菱垣廻船の競争

樽廻船問屋は大坂・西宮に成立しました。
樽廻船は多いときでは年間100万樽もの酒を運びました。

しかしもともと樽だけを専用に運搬していた樽廻船も時代とともに、他のモノも積み込み運送するようになり、菱垣廻船との間に競争が起こりました。
樽廻船は菱垣廻船よりも運賃が安く、しかも港で雑貨を積み込む為の荷物待ちの日数も少なく、その為に江戸までの所要日数も少なかったので、競走上は有利でした。
両者はしばしば積荷について協定を結びましたがあまり守られず、しだいに樽廻船が菱垣廻船を圧倒しました。

天保の改革により問屋が禁止され、積荷の制限はなくなり両者の差別は薄らぎました。
問屋再興後も状況は変わりませんでした。
明治維新後、明治28年(1895)樽廻船は菱垣廻船と合体して組合を作りました。

船の数

樽廻船と菱垣廻船をあわせると最大で400艘の船が運航されていました。

1700年頃には廻船は260艘という推定があります。
享保8年(1723年)には菱垣廻船の数は、160隻という記録があります。。
安永元年(1772年)樽廻船の総数106隻に対して、菱垣廻船は160隻であった。
天保15年(1845)の調査では 幕府が徴収した御城米を運ぶ資格を持つ大阪の船151隻のうち、
120隻は1400石〜1600石、 最大のものは1900石でした。

弁才船の構造

基本的には板構造の船でした。

弁才船は大きな板を組み合わせた板構造の船でした。 いわばモノコック構造。
日本は木材が豊富なので厚く強い板を比較的容易に使えたことでこのような構造が発達したのでしょう。
このモノコック構造のおかげで、西洋船のようなフレーム&外板構造でなく、積載量が増し、材料の木材も少なく、全体重量が軽くでき 優れた性能と価格の安さ、荷物が多く楽に積めるという特徴をもたらしました。

この構造は刳船(くりぶね:丸木船)の上部に板をめぐらして大型化をはかった古墳時代の船から発展したものです。
対する西洋の船は骨格と細い板材で構成されています。
竜骨がない→構造的に弱い→外洋航海ができない というイメージが生じてしまいますが、良く設計された構造物であれば近代の飛行機でも自動車でも建築物でもモノコック構造の方が強度も高く、スペースも大きくとれる、コストも安い すなわち優れた構造になるということは歴史が証明しています。
実際 建造費は西洋の船の半分以下でした。

船 形

上方型弁才船と北前型弁才船では船形は異なります。
平面図を見ると、上方型は笹の葉の形、北前型はナスビの形。 断面図を見ると北前型の方が丸みがあり、前後のそりが強くなっているのが特徴です。

これは 課税の方法が異なっていたためと、荒天が多い日本海を航行することによる違いです。

「竜骨」と「航(かわら)」

西洋の船が竜骨(キール)という背骨のような構造を持つのに対し、弁材船はそれに相当するものとして航という部材を持っています。
航とは敷(しき)ともいい、船首から船尾まで通す平らな船底材です。



▲航(かわら)
 航の幅はかなり広く 複数の板を張り合わせた構造であるときもあります。

弁材船は竜骨を持たないことで構造的に弱いとか横向きに流れるため逆風でも帆走が不可能とよく言われますが、これも間違い。
航は厚さが30cm以上もあり、非常に丈夫な構造材です。モノコック構造の一部を面の性格を持つ強い構造材で支えているという感じでしょうか。
江戸時代後期の千石積級の船で長さ46尺(14m)、幅5尺(1.5m)が標準でした。
また「根棚」とともに船底から大きく張り出しており、横に流れにくい構造になっています。

船底を平らに作ってあるのは修理、造船のときには、船が自立する工夫でした。
これは港の設備が充実していない日本で使うため、ドック不要とする仕掛けともいえます。
設備も構造もローコストを主眼に作られたためでしょう。

帆 装

弁材船は横帆1枚の単純な帆装でした。
弁才船は、船体ほぼ中央に大きな帆を上げていて、これを本帆(もとほ)といいます。
江戸時代の後期になると船首に弥帆(やほ)と呼ばれる小さな帆をつけるときもあります。

和船では、中世のころから筵帆(むしろほ)が使われてきました。
16世紀後半になって、軽くてしなやかな木綿帆が軍船に採用されるようになりました。
しかし一般の廻船や小型船は価格が高いので筵帆のままで、17世紀後半になってようやく木綿帆が使われるようになります。
木綿の国内生産が増大して価格が低下してきたこともその理由でしょう。
当初は「刺し帆」といって、一反3尺幅の薄い布地2枚を重ね太い糸で刺し子のように縫い合わせたものでした。
やがて2尺5寸幅の刺し帆に改良され、
つぎに、天明5年(1785)、播州(兵庫県)高砂の船頭・松右衛門が苦心のすえ、太い木綿糸を使った厚くて丈夫な帆布の製作に成功します。

 

▲工楽松右衛門帆布

これは織帆・松右衛門帆と呼ばれ、糸を刺す手間がかからず丈夫で長持ちし、強風でも船を動かすことができ、風待ちが減る、また帆の修復作業の減少などといった運用上の効果をもたらし、帆走性能も向上。大きな効果を上げて全国的に普及しました。
そしてこの丈夫な帆は明治時代まで使われました。

松右衛門はこの功績により幕府から「工楽」の姓をもらいました。
兵庫県高砂市の高砂神社境内には工楽松右衛門の銅像があります。

江戸中期から明治にかけての実積石積と帆の反数の関係はおおよそ
100石-10反 300石-16反 500石-19反 800石-23反 1000石-25反 1200石-27反 1500石-29反 2000石-32反
でした。
一反の幅は2尺5寸といいますから約76cm。この短冊状の帆布を船の大きさによりつなぎ合わせて1枚の帆として使います。

帆の上部は帆桁に固定され、帆の下は綱(つな)でとめて船体と結ばれています。
帆は船上で簡単に少人数で操作できます。
帆桁の方向は桁の両端につく手縄(てなわ)と呼ばれる縄を、帆のふくらみは帆の両脇につけた両方綱(りょうほうづな)と呼ばれる綱を操作して行いました。

帆の上下は帆桁を帆柱の先端の蝉(せみ)とよばれる滑車を通して船尾に縄を通じ、後部船室の中にある轆轤(ろくろ)と呼ばれる人力の巻き上げ機を使って船内から行いました。
明治初期までは基本的には横帆一本でした。
特にスピードが要求されるときには 船首に横帆がかけられるときがありました。
明治14年頃から西洋風の縦帆がついた合の子(あいのこ)船が出現します。
明治19年より西洋の船の影響を受けて、横帆の船にも船首にはジブ(三角帆)、船尾にはスパンカーが装備されます。
しかし数的にはあいかわらず伝統的な横帆の装備が多く 進化はしませんでした。おそらく省力化よりも建造コストの安さが重視されたのでしょう。

帆摺管(ほずれくだ)

帆柱を前から支える綱にはジュズのような木の玉がたくさんついています。
綱と帆が接して帆が傷まないようなプロテクターの役割です。



▲帆摺管



船体の割には舵は大型でしかも固定式ではなく、水深に合わせて引き上げることができるように吊り下げ式でした。
水深が浅い港も多かった日本で 岸にできるだけ近づくための工夫でした。



▲浪華丸の舵
 巨大な舵です

舵が船体に固定されていないため、荒天時には荒波に打たれて舵が破損し易く、遭難する原因になりました。
舵の軸である「身木」が回転する軸受けは「床船梁」の半円形のへこみ「鷲口」しかなく、身木が左右にずれないように固定するだけです。



▲舵の固定方法
 舵を固定するには蹴上げ船梁から「尻掛け」という綱を「身木」に回してはずれないようにしたり、
 大小の「水越し」という綱で吊り上げたり、
 艫の車立に「柁打廻し(前掛縄)」を廻したりするなど丈夫な装着に苦心しています。

大きい舵が欠点とはいいながら、舵は時代とともに更に大きくなっていきます。
舵が大きいことにより 横流れを防ぐウイングキールの働きをします。
すなわち、荒天時の安全性よりも 性能を重視した設計思想によるもので、今ではちょっと考えられないものです。



▲舵柄(かじづか)
 巨大な舵を動かすには舵軸である「身木(みき)」の上端に長い舵柄を(千石積で25尺ほど)を刺して、少人数で動かせるようにしていました。

 

▲舵の複雑な部分

帆柱(ほばしら)

一本マストのため暴風雨の時など沈没の危機に直面してマストを切り倒すと、その後の航行が全く不能になり、これが難破、漂流の大きな原因になりました。

最初は一本の木材でしたが、後に細い柱を何本も束ねて鉄のタガをはめた松明(たいまつ)柱が使用されました。
帆柱は 取り外しができるのが特徴で、倒すことができました。

嵐などの緊急の場合には切り倒してしまいましたが、通常は折りたたみ式になっていたのです。

 

▲車立(しゃたつ)
 車立は船体の舳(へさき)と艫(とも)にあり、帆柱を起倒するときに重要な役割をはたします。
 舳の車立は表車立(おもてしゃたつ)、艫の車立は艫車立と呼びます。
 センターの台と帆柱を固定する部分は筒鋏(つつばさみ)と呼びます。
 舳の車立は小さな碇を引き上げるときに轆轤(ろくろ)としても使います。



▲筒鋏(つつばさみ)



▲海から帆柱を引き上げる
 水面に浮かべた帆柱を、引き揚げて車立に乗せます。



▲車立から帆柱を後ろへずらします。



▲艫車立を支点に帆柱の根元を落とし、綱と滑車と轆轤で引く。



▲物見
 居住部の前方、帆柱の後ろ船体中央にある船底を覗く部分を「物見」と呼びますが、全体が取り外せるようになっています。



▲切船梁断面(きりふなばりだんめん)
 帆柱を入れるために船梁を切っています。

船頭の居室

腰当船梁から床船梁までの後部甲板上を占める船室のことを屋倉(やぐら)と呼びました

右舷側の帆柱の横は「狭の間(はさみのま)」と呼ばれ船頭の居室でした。
船乗りの世界では船長がたいへん豪華な空間を占有するのですが、和船も例外ではありませんでした。

 

▲狭の間
 甲板から後部船室へつながる廊下のような場所が船長室。
 家具もなにもないガランとした空間ですが・・・

左舷側は事務長である知久(ちく)の部屋になります。



 

▲居室の両側に窓があります。
 切りあがった部分に付くため形状は平行四辺形になっています。

五尺

五尺と呼ばれる、最前部の舷側は組み立て式で外れるようになっていました。

 

▲取り外しができる五尺
 空荷の時は喫水線が下がるため、碇(いかり)の操作がしやすいよう、五尺を取り外します。
 荷を積んでいる時は、喫水線が上がるため、五尺を取り付けます。

水押(みよし)

船首の水を切る部分をいいます。
弁才船の象徴的な部分でした。
化粧金(けわいがね)という銅板で飾り、下がりという装飾を付けるときもありました。



下がり

下がりとは水押(みお)に取り付けられた黒い縄の飾りです。
シュロ縄を黒く染めたものが使われました。



▲さがりの名称
 長下がり、ばらさがり、突き出しさがりなどがありました。
 さがりを付けないものを奴水押(やっこみよし)と呼びます。

 

▲さがりの種類

甲板

水密甲板( 水が漏れない甲板 )が無かったことも弁才船の欠点のひとつとなります。



▲板をはめこみ、並べただけの甲板。
 板は固定されていないため、大波をかぶったりするとバラバラになってしまったことでしょう。

荷物を搭載する胴の間と甲板の間の床は固定式ではなく板を並べただけの取り外しのきくものでした。
荷物を積みおろしをするときにはこの板を外し作業をしました。
甲板をはめ込んだ後、更にその上に荷物を大量に積み上げ 航海しました。
荒天時に波が打ち込んで来ると荷物は水浸しになり、たちまち浸水してしまいました。
もっともこれは利益を確保するための覚悟の上なので、改良されることはありませんでした。

乾舷( Freeboard )が低いことも遭難しやすくしています。
喫水線から上甲板までの舷側(海面から甲板までの高さ)が低く、波をかぶり易い構造でした。



▲恐ろしいほどの満載状態。
 これは北前船の写真ですが、安全軽視、利益重視の満載はどこでも行われていたようです。



▲船尾構造
 浪華丸は船尾にカバーがないオープン構造ですが妻板と窓がついた構造の船もあったようです。

蛇腹垣(じゃばらがき)

船内への横波の打ち込みを防ぐための波除けの覆い。
積荷があるときの臨時的装備でしたが、明治に入り常設されるようになりました。

轆轤(ろくろ)

 

▲轆轤は弁財船を特徴づける装備のひとつで、船室の中に備えられています。
 今で言えばウインチで、ロープを滑車でまわして、帆を上げたり、伝馬船を上げたりしました。

 

▲轆轤(ろくろ)の使い方
 轆轤の細い部分に綱を巻き付け、一人が張力をかけ、大勢で轆轤を回します。

 

▲飛蝉(とびせみ)
 帆を上げ下げする綱は帆柱の上端に付けられた滑車から船室の後部の「飛蝉(とびせみ)」という滑車で方向を変え、
 轆轤で巻き取ります。

神棚

普通は神棚と仏壇の両方を備えました。
天気や風、相場など人の力が及ぶ範囲外の要素が多いので神様の地位は非常に高くなります。

 

▲神棚
 航海の守り神のお札などをまつり、神に航海安全の加護を祈願するために設けられました
 近世最も舟人の信仰を集めていたのは讃岐金毘羅宮です。

 仏壇
 船仏壇と呼ばれる小型の仏壇があります。
 航海の安全の加護を祈るために、通常 船頭が持ち込み、艫の仏壇置場に納めました。

装備品

鈴の尾

屋倉と呼ばれる居住部分の中央前方、物見の両側にある布製の装飾物。
なじみの遊女たちから船に送られたといわれます。

 

▲鈴の尾
 仏壇、神棚の左、物見の左右両脇に吊るした細長い筒型の飾り。

賽の目、五穀、一文銭

帆柱の基部におさめて、航海の安全を祈願しました。
賽の目は 「天一、地六、表三合あせ、艫四合せ、中二、櫓櫂五と」
というように語呂合わせで言われたようです。
他にも読み方はあり、地域差があったようです。
五穀は 米、麦、粟、稗、大豆
一文銭は旧暦閏月を入れて13枚をセットに1年をあらわし入れられた。


▲賽の目、五穀、一文銭



廻船に使う綱の種類
見綱(みづな):身縄(みなわ)ともいいます。帆を上げるための綱です。
         停泊時には伝馬船、碇、重い荷物の積み込みにも使われました。
手綱(てづな):手縄(てなわ)ともいいます。帆桁の両側から艫の垣立にとる綱で、帆を動かすための綱です。
両方綱:帆の両側から4〜6本くらいとる細い綱で、帆に受ける風量を調整し、帆のふくらみを加減するためのもの。
脇取綱(わきとりつな)
があります。

しかし一般に綱とは碇綱のことをいいます。
材質によって苧綱(おづな:麻綱)、桧綱(ひのきづな)、市皮綱(いちびづな)に分けられました。
この3つを廻船三綱といい、千石積級では80尋(121m)前後の綱を10〜12房用意していました。
苧綱の最上級品は加賀産の麻綱で荒天時用。
桧綱は価格も安く平時の碇泊用。
市皮綱はアオイ科のイチビの茎の繊維で中間の品質です。

船名額

船の名称を彫刻したり、筆書きして額に仕立て、船体中央部分の居住部分に掲げていた。
船名だけでなく「一帆千里」など航行に縁起が良い言葉も刻まれました。

 

▲船名額
 船のシンボルとなるので 残されているものも多く、博物館でよく見ることができます。

かまど



▲かまど
 乗組員のご飯、汁などを炊く設備。
 土、石などで作られました。

伝馬船

港で荷物の積み下ろしや連絡の役目を果たします。



▲伝馬船
 小さな船のようですが、実物を見るとずいぶん大きいサイズです。



▲伝馬船を固定しておく台を取り付ける穴。
 空荷の時は伝馬船をここに置き、積荷のあるときは前方の合羽(かっぱ)の上に置きました。

碇(いかり)

鉄製の四爪碇(よつめいかり)が使われました。
重さの違うものを4〜8頭 載せていました。
碇は海底から再発見されることが多いのでこれも博物館によく展示されています。



▲80貫(300kg) 高さ2.5m の四爪碇

滑車



▲滑車
 木製です。

 

「なんば」とも「せみ」とも呼びますが、
強いていえば、力の方向を変更するための滑車を「せみ」、力を増幅するための滑車を「なんば」と呼ぶようです。

茶碗棚

乗組員の茶碗等が入る棚

 

▲茶碗棚

すっぽん

船底にたまった水を吸い上げるための道具

 

▲すっぽん
 帆柱のすぐ後ろにあります。  しかし、浪華丸のこの構造では排水口が外側につながっていないので、くみ上げた水はまた元の所に落ちてしまう。
 実際はどのようになっていたのだろう。

水樽(はす)

真水を貯めておく樽。



▲水樽
 艫に置かれました。船底に木でタンクを作って水を入れておくこともあります。

船箪笥(ふなだんす)

船頭の書類入れと金庫を兼ねたもの
大事なものがたくさん入っているため、入港して船頭が船宿に宿泊するときは持参して上陸しました。
そこで持ち運びに便利なように、サイズも小さく、上部に手下金具があります。
いくつかの種類がある。



▲船箪笥
 これは懸硯(かけすずり)と呼ばれるタイプのもの。



▲船箪笥
 これは知工箪笥(ちくだんす)と呼ばれるタイプのもの。
 船の事務長が帳簿をつけたり、するための机を兼ねた箪笥です。
 金属が少なく、実用的なつくりになっています。

手型箱

船と乗組員のための往来手形を入れる箱

船鑑札

 

▲船鑑札 江戸時代

船磁石

舵取りが船の進む方向を見るために使う逆針と、山や岬の方向を見るための正針があります。
一般の廻船で使われるようになったのは江戸時代後期で 沖乗りや夜間航海が増えだした頃です。

逆針磁石は子(ね)の方角(北)を船首にあわせて固定すると、船の進んでいる方向がわかるようになっています。
逆針磁石は300年ほど前に日本で発明されました。

 

▲船磁石
 博物館で よく見ますが、一般の旅行用にも使われたので混同されています。

遠眼鏡(とおめがね)

望遠鏡のことです。
西洋から入ったものですが、日本でも江戸時中期から長崎などで作られるようになりました。
相当高価なもので普通の船頭は持つことができませんでした。



▲遠眼鏡

船行灯

 

▲船行灯
 油を使った灯明、ろうそくが使われた

弁才船の大きさ

千石船と言っても、最盛期には2000石積みの船もありました。

大きさ制限に関しても誤解に満ちていて
確かに江戸幕府は成立の初期 寛永12年(1635)に武家諸法度を改定し「五百石以上之船停止(ちょうじ)之事」とし、西国大名から500石以上の船を没収しました。
しかし3年後には幕府は「しかれども商売船は御許しなされ候」との新解釈を通達しています。
「貨物船も海外まで渡航できないようにその大きさを制限されていました。」ということはありませんでした。
そこで、時代とともに千石船は大型化し1860年頃には2000石積の船まで現れるようになります。

弁才船の性能

明治になって入ってきた西洋の船に対して 性能が劣っているようなイメージがありますが、実際にはかなりよい性能でした。

●切りあがり角度
弁才船は順風でしか走れないとよくいわれてきましたが、そんなことはありません。
横風帆走を意味する「開(ひら)き走り」や逆風帆走を指す「間切(まぎ)り走り」といった語は、すでに17世紀初頭「日葡辞書」に収録されています。

浪華丸の航走実験では向かい風に対しては風の来る方向から左右60°、横流れを含めても70°を記録しています。
弁才船の逆風帆走性能は、ジャンク(中国船)やスクーナ―型などの縦帆船(じゅうはんせん)に比れば劣りますが、 実習船の日本丸(4本マスト)のようなバーク型などの横帆船(おうはんせん)にややまさっています。

弁才船の耐航性と航海技術の向上した江戸時代中期ともなると、帆の扱いやすさとあいまって風が変わってもすぐに港で風待ちすることなく、可能な限り逆風帆走を行って切り抜けるのが常で、足掛け4日も間切り走りを続けた例もありました。

●スピード
浪華丸の航走実験では秒速9mの横風で7.5ノットを記録しています。
帆船としては十分なスピードです。
焼玉機関付きの機帆船の航海速力は5〜6ノットですから、最高速度ではそれを勝っていました。
これらの遅い動力船に駆逐されてしまったとは皮肉な話ですが、安定的なスピードの方が商売を行ううえでは重要だったのでしょう。

19世紀に中国からイギリスまで紅茶の輸送に従事した西欧のティークリッパー カティーサーク(平成19年5月21日に焼損)は最高時速 17ノット(時速 31 キロメートル)まで出した記録があるそうです。

それに対してはちょっと劣りますが、弁才船も通常のスピードであればかなり高性能な船ということができます。

風上に向かって走るときのスピードは風速の25〜30%
真横から斜め後ろ風では風速の35〜40%強
真後ろの風では30〜40%というデータになっています。

元禄期(1688〜1704年)には菱垣廻船は大坂-江戸間は平均33日かかりました。
年間に4往復していました。
やがて 沖乗りが普及し 平均12日。
冬も航行するようになり、年間8往復しました。

●安全性
安全性は重要視されませんでした。残念ながら。

最も問題があったのは甲板のオープン構造で甲板の板が梁に置いてあるだけで、固定されていませんでした。
甲板の板をを外して船底から荷物を積み込み、板で甲板を構成させず そのまま上に積上げて山盛りのようにしてしまうという運用も多くなされました。
水をかぶれば一気に水が入ってしまい半沈没、いわゆる「水船」状態になってしまいます。
海が荒れてきても、荷物がじゃまになって甲板もかぶせられない。
このオープン構造は技術的に水密構造ができなかったわけではなく、ペイロードを確保したいという経済性が重視された結果であり、船乗り側からの改善要求もなかったのです。積載性を落としてまで安全性を改良しなかったということになります。
一方 西洋船は外洋の長期航海で鍛えられているためか水密構造を早くから取り入れ、常識的になっていました。
この安全思想は西洋船が明らかに優れているのですが、西洋船が入ってきてその優れた点が理解された跡でも水密構造はベザイ船には取入れられませんでした。
船型や、帆装などはベザイ船に取り入れられたのですが、甲板の構造は最後まで改良、問題解決されませんでした。
船主は荷物が積み込みにくくて、積載量も減ってしまう水密甲板を嫌っていました。船乗りもどうせリスクの高い職業を選んだのだからといういわば覚悟の上で要求も出しませんでした。

次に問題だったのは大きな舵。西洋船と比べて平底の形状、舵は横滑りを防ぐ役割を持っており、また喫水が浅い所が多かったため浅く大きな舵を使う。大きな舵にせざるを得なかったというのは理解できます。
しかしその大事な舵の固定はロープだけ。浅瀬を航行するためあるいは水深の浅い港での停泊のために簡単に外れる構造にせざるをえなかったということも理解できます。しかし横波をくらえば一発だったでしょう。
帆船にとって舵を失うことは致命的で風に対する角度を維持できず推進力すら失ってしまいます。

また、その舵を波から守るためか 船尾に船体と一体化した無意味とも思える木製の囲いをつけました。
しかし、この部分が波浪により打ち砕かれる。また舵が外れると舵がその木製の囲いを壊すということが起こりえます。
囲いは舷側の構造材と一体化しているのでそこから船体構造が破壊され、浸水が起こり更に困難な状況となりました。
この部分の構造が今見ると「ひどい設計」でせめて別体構造にしておけばとも思ってしまいます。

舵とこの船尾部分の構造は 西洋船から学び、西洋船タイプへの進化も一部で見られました。

●積載量
千石船 1艘で 酒なら1600樽 米なら1000石(2500俵)
技術進化によりどんどん大きくなってゆくという道を歩みました。

●乗組員
時代と共に効率化し乗組員の数は減少してゆきます。
江戸後期の千石積で普通は15人ぐらいでした。

この操船に必要な人数の少なさがベザイ船の特徴で、西洋型帆船よりも少ない人数で運行できました。
これも明治末期まで生き残った理由です。

●船の価格
千石積みの船で1000両(4000〜8000万円)といわれています。

材質

さまざまな性質の木材が適材適所で使われていました。

・樫(かし)
・檜(ひのき)
・松
・欅(けやき)
・杉
・弁甲杉(べんこうすぎ)
  軽い,死節が少ない,成長が早い。曲げやすく割れにくい材 というのが特徴です。
  九州日南地方の特産

このような大きな千石船を造ろうとすると、大きな木材が大量に必要となります。
曳き船もトラックもない時代に造船の地 大坂へ大量の木材を運ぶことすら大変だったと思います。

造 船

弁才船の造船にはドッグを必要とせず、波の静かな海や川に面する傾斜がゆるい広い面積が確保できる岸で造ります。

弁才船の建造工程

1.海岸または川岸の造船に適した傾斜地(けいしゃち)をつき固め、輪木(りんぎ)という角材を埋め込んで土台を作ります。
 輪木とは、腐食(ふしょく)しにくいクスやクリなどで作られた造船台のことです。

 図版は日本財団HP弁才船のできるまで より

▲輪木

2.輪木(角材)の上に航(かわら:船底材)を据える。



▲航(かわら)(船底材)は胴航(どうがわら)と艫航(ともがわら)よりなっています。

3.航に水押(みおし:船首材)と戸立(とだて:船尾材)を取り付ける。



▲胴航の先端に水押(みよし)(船首材)をつけ、艫航の後端には幅の広い戸立(とだて)(船尾板)を取り付けます。

4.航に根棚(ねだな)を取り付けます。



▲根棚は航とともに堅固な船底部を構成する重要な材なので、棚板のうちで最も厚く、航の厚さの半分(50〜70%)あまりもあります。

5.上縁に下船梁(したふなばり)を入れて固めます。



▲両舷の根棚を下船梁でつなぎます。
 根棚に中棚(なかだな)を取り付ける

6.中棚の前部に四通り(よとおり)を取り付けます。



▲中棚は水押との結合部で垂直になるので、ねじれが大きく、そのため三の間あたりから前を2〜3階造りにしています。
 これを四通り(よとおり)といいます。

7.中棚を中船梁でつなぎ固定します。



▲根棚に中棚(なかだな)を取り付け、上縁に中船梁(なかふなばり)を入れて横張力をもたせます。

8.中棚の上に上棚(うわだな)を取り付けます。



▲中棚に上棚(うわだな)を垂直に近いくらいに立てて取り付けます。
 上棚は最も長い棚板なので、500石積以上の船では船首側と船尾側に分けて、船体中央の腰当(こしあて)部で重ね継ぐのが通例です。

9.上棚を上船梁でつないで船の形を決めます。



同程度の厚さの除棚(のけだな)(舷側板(げんそくばん)を外側に重ねて補強した上棚の上部に横張力用の上船梁を入れます。



▲主要部分断面模型
 以上の工程でこのような断面構造を持つ船体が完成します。
 このあと、上部の細かい部分の建造作業に移ります。

10. 舷外に突き出た上船梁の端を台(だい)(太い角材)で連結して船体強度を高めます。

 図版は日本財団HP弁才船のできるまで より

11.船体中央部に帆柱を支える筒と筒挟み(つつばさみ)を垂直に立てます。

 図版は日本財団HP弁才船のできるまで より

12. 上棚の上縁にほぼ垂直にハギツケをはぎ合わせ、前部に合羽(かっぱ)(甲板)を張りつめます。
 18世紀中期に普及するハギツケと合羽(かっぱ)は、耐航性の向上と積載量の増大に大きな役割を果たしました。
 船首近くに垂直に立つのが、帆柱を倒したときの受けとなる舳車立(おもてしゃたつ)です。

 図版は日本財団HP弁才船のできるまで より

13.台の上に垣立(かきたつ)を立てます。
 舳(おもて)垣立は艫(とも)垣立よりも低くし、胴の間の上部を取り外して、荷役を行うとともに、空船のときには伝馬船(てんまぶね)を搭載します。
 艫垣立の上に張る屋倉板(やぐらいた)は、操舵(そうだ)や操帆(そうはん)を行う作業甲板であると同時に乗組員の居住兼作業区画の屋根の役割を果たします。

14. 棚板の上に保護用の薄い包板(つつみいた)を張れば、船は完成します。

15.船卸(ふなおろ)しのため船を手木(てぎ)で持ち上げ、下輪上面の上輪を取り外し、水際まで敷き並べた修羅板(しゅらいた)(堅木の板)の上にカシのコロを多数おいて船をのせます。

 図版は日本財団HP弁才船のできるまで より

16.船卸し



▲船から沖の碇(いかり)にしかけた滑車(かっしゃ)に綱をとって轆轤(ろくろ)でまきながら徐々に船を動かし進水させます。
 船卸しの当日、船上から撒銭(まきぜに)・撒餅(まきもち)をふるまい、船を水に卸して船主と船頭以下の乗務員が乗って乗初めを行います。

板の曲げ方

立体的な板構造であったため、板を曲げる、あるいはねじる必要がありました。



▲江戸時代の板の曲げ方。
 火であぶって重りで曲げます。

板の接ぎ方

弁才船は板構造であり大きな面積の板が多数必要になります。それには木材を接いで板をつくる技術が必要です。

材木の幅には限度があるので、複数の材木をつないで大きな面 すなわち集成板をつくります。
板材をつなぐことを「はぎ」と呼びます。
一見 接合部は弱そうに見えるのですが、実は非常に丈夫で、破損するときも接合部ではなく、他の部分が破損したと言われています。

 

▲かすがいと埋め木
 かすがい:合わせ目を補強するために打ち込みます。
 埋め木:板を接ぎ合わせるために縫い釘や通し釘を打つときには、板にへこみを作る必要があり、釘を打ったのち木片を埋め込んだものです。
  埋め木の下には「縫い釘」があります。

●縫い釘と鎹(かすがい)



▲縫い釘を使った接合の構造

  

▲のみで釘に合わせて穴を開けます。→「つばのみ」を打ち込みます→「つばのみ」を抜くと、釘穴ができます。



▲つばのみ
 釘の下穴をあけるための工具。
 打ち込むだけでなく、逆方向にたたいて抜くために特殊な形状をしています。

  

▲釘を打ち込み、最後に釘締めでしっかり打ち込みます。→釘穴に埋め木をする→「かすがい」で固定します。



▲船に使う和釘。

●すりあわせ
板を接ぐ時に合わせ面はぴったりくっついていないと水が漏ってしまいます。
そこで、縫い釘による接合の前に両方の板を同じ形状にするために、接合面の板の隙間に「ノコギリ」を引きながら一回通します。

そのために摺鋸(すりのこ)という道具を使います。
摺鋸は木造船を造る時には欠かせない道具です。
すりあわせをした後、縫い釘と鎹(かすがい)で固定し、隙間に桧(ひのき)の皮を打って柔らかくした繊維を打ち込みパッキンにします。



▲摺鋸(すりのこ)

●通り釘



▲通り釘を使った接合の構造

  

▲のみで釘に合わせて穴をあける→「つばのみ」を打ち込みます→抜いて 釘穴をつくります

  

▲通り釘を打ち込み釘締めで締めこむ→通り釘の先を曲げて抜けないようにする。→釘穴に埋木をする。

造船の本場大坂

近世の大阪は船づくりで天下一でした。
大阪には18世紀初頭には約3000人の船大工がいたことが記録されています。





●天満の船大工町
18世紀中ごろ 瀬戸流の船大工 金沢兼光(『和漢船用集』を編纂)が活躍。
川御座船も造っていました。

●堂島の船大工町
千石船や川船などを造っていました。
堂島は米会所や諸藩の蔵屋敷があったところ。
船大工たちは天満の船大工とともに、当時の蜆川(曽根崎川)の浜に船小屋を建てていました。

●堂島船町〜合羽島
文政12年(1830)頃、当時の船大工棟梁樋口家は玉江橋北詰を西に入ったあたりに住んでいました。
苗字帯刀を許されていました。
今の関西電力病院の西側から堂島橋(合羽橋)までの間には造船所が立ち並んでいて、堂島船町と呼ばれていました。

●川口(安治川筋)
船番所、船蔵、廻船問屋、船道具店が並んでいました。
菱垣廻船が発着したのはこのあたりでした。

●長堀
このあたりには船の材料となる 木材問屋が多くありました。
木材市場があったためです。
今でも木材関係の店がたくさんあります。
また、西横掘沿いは材木店が軒を並べていました。

●解船町(ときふねちょう)
船を解体し、材木・釘を再生する地域がありました。
西横掘と阿波座掘のつながる付近。

●船道具屋
木津川の東側、阿波座掘から道頓堀川の間。

●江之子島
淡路屋六兵衛らがいた船大工の町。

●京町掘や江戸堀、西横堀界隈にも船道具店や材木店が多くありました。

●寺島
大阪ドームがあるあたり。
木津川と尻無川の間の寺島は船をつくる「船だて場」でした。

●三軒屋
船番所や船囲いがありました。
三軒屋の対岸 木津川通り(道頓堀の西端あたり)には寛文年間(1661〜1673)から廻船屋、船宿、大工、船頭、船乗りの住まいなどが集まっていました。


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