渥美の窯の200年のお話
陶磁器が好きな方でも「渥美古窯」はご存知ない方がほとんどではないでしょうか? 多くは「渥美って何??」という反応でしょう。
渥美というのは愛知県の渥美半島、ほら名古屋のある伊勢湾の入り口を作っている東西に細長い半島のことで、そこで焼かれた陶器のことを「渥美」と呼ぶのです。
今では窯元など1つも無いのですが、渥美半島の空にも、やきものを焼く煙が盛んにたちのぼっていたころがあったのです。
生産された陶器は超一級品。備前も瀬戸も信楽など中世古窯の作品は数々あれど、国宝に指定されているのは「渥美」だけです。しかも2点も。
そんな一級品を作っていた渥美の窯がなぜ衰退してしまうのか?
また現在なぜ一般の方にあまり知られていないのか?
そのような不思議な窯である渥美古窯をちょっと調べてみました。
渥美古窯は渥美半島すなわち、愛知県田原市のほぼ全域、豊橋市の南西部 東西約40kmに分布している窯跡をまとめて「渥美古窯」と呼んでいます。昔は渥美町という町があったのですが、平成の大合併で田原市になっています。
数は400基とも500基以上ともいわれています。500基という数字は多いようにも思われますが、同じ愛知県にある常滑古窯が3000基の窯跡が残されていることから考えるとずいぶん小さな数です。
窯があった時期は12世紀のはじめ(平安時代)から13世紀(鎌倉時代)まで。わずか200年ほどの期間です。
比較的早い時期に開窯された窯ですが、滅ぶのはもっと早く、江戸時代が始まるずーと前に滅んでしまいました。
廃絶してから既に800年あまり。現在でも陶磁器が生産され続けられている瀬戸や常滑、美濃とは異なります。
製品の「渥美」の色は黒っぽく、粉状の土で、厚いつくりで、表面に はけで釉薬がかけられています。
灰釉陶器(かいゆうとうき)と呼ばれるものです。渥美はかなり早い時期に灰釉陶器の生産を軌道にのせました。
原料は当然渥美半島の土。今のように粘土をトラックで運んでくるわけにはいきませんので 土と燃料が入手できる場所に窯を作りました。
素地の美しさでは渥美は勝負になりません。
現代では陶器のざらつき感や厚手感は「味・あたたかさ」として良いものとされますが、
当時は中国からの輸入磁器が最高のものとされたため、素地の悪さは大きな欠点だったと思います。
その代わりに発達したのは表面の模様。
渥美の特注品には 竹ヘラで描かれた絵や線、文字が入るものが多く、それが渥美の特徴です。刻文・線刻模様と呼ばれます。
結果として渥美の特注品は時の権力者から重用され、宗教と結びつき、最高級の製品として日本の各地で使われました。ほぼ全国区。その中にすばらしい製品が残されています。
線刻模様は丹波と越前の一部の製品にも見られます。
渥美はそれを積極的に使い、絵画的にまで進化させたのです。
標準的な模様はあり「袈裟襷文」「蓮弁文」と呼ばれ、渥美古窯の初期からのトレードマークにもなっていました。
●袈裟襷文(けさだすきもん)
写真は日本陶磁大系より
▲袈裟襷文壺 松山市石手寺裏山経塚出土
細い竹を縦に割ってその端をつかって横方向に3段の線をひき、そのあいだを同じ方法で縦方向にも線をひいて、一定の区画をつくる模様です。銅鐸の表面の模様にも多くみられます。
渥美古窯の初期に属するものの模様です。
●三筋壷
主に常滑、一部に猿投、渥美などの古窯で焼かれた壷にみられる模様です。2本ないしは3本の刻線を水平方向に一周させた模様です。
北峰仏教・山岳宗教の五輪思想から、首・肩・胴の三筋で空風火水地を表しているとか言われています。
●蓮弁文
このような蓮の花の模様です。
蓮弁文は他の陶磁器の模様にもみることができますが、写真のようなパターンの蓮弁文は渥美古窯独特のデザインです。
ただし、渥美古窯の製品の8割は、甕(かめ)・壷・茶碗・小皿などの日常雑器の類です。模様が入った雑器は珍しいようです。線刻模様が発達したのは2割の「特注品」です。
●さらに渥美を特徴づけているのは フリースタイルとも思える さっと勢いよく描いた絵です。
そもそもこのような絵を陶器に描こうとしたのは渥美が最初です。
呪術的な絵や窯印と呼ばれる識別模様はありましたが、美しく見せるための絵を陶器の表面をキャンバスにして描こうという発想は あり余る技術を誇る職人のアート表現の発想でしょう。
しかも余白を多く残し、何もない空白をデザインしたかのような日本的な模様。後の柿右衛門にも共通しています。
爛熟期の絵が見事で、さっと勢いよく描いた線は職人の迷いのないデッサン力から生まれています。
渥美には国宝が2つあります。
陶磁器は美術品やら骨董であれほど数があり、長く残るものでありながら、その頂点に立つ国宝は数が少なくそれと認められることは簡単ではありません。
工芸品部門で陶磁器の国宝は現在14点。「曜変天目茶碗」3点を含めて中国製の陶磁器が9点、国産陶磁器は5点。
国産陶磁器国宝5点
・秋草文壺
・色絵藤花茶壺(MOA美術館所蔵、仁清作)
・雉香炉 (石川県立美術館所蔵、仁清作)
・光悦片身替り[銘不二山](サンリツ服部美術館所蔵、本阿弥光悦作)
・志野茶碗(三井記念美術館所蔵)
茶道具が多い中、異質な秋草文壺が堂々の国宝指定です。
考古資料の部にもうひとつ
伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品 一括 (金剛證寺 平安時代)があり、この中で
朝熊山経ヶ峯経塚経筒外容器が国宝指定です。
●国宝秋草文壺(あきくさもんつぼ)
高さ41.5cm 口径16cm、胴部径29cm、底部径14cmの中くらいのサイズの壺です。
昭和28年(1953)に国宝に指定され、現在は東京国立博物館で展示公開されています。
美しさはまず形。口はやや外反して胴の上部のふくらみと、底に向かってすぼまっていく傾斜のバランスが優雅。
黄緑がかった自然釉が美しさを引き立てています。
流麗な刻画文が最大の特徴。ススキ・ウリ・柳などの秋草やトンボなどの線彫文様が大胆な構図。名称の秋草文はここからきています。
現代でも通用しそうなデザインです。日本的な秋の風情を伸びやかに表現しています。
このような文様の描き方は、中国陶磁の影響を一歩踏み越えて、日本人独自の表現手法でした。
その日本陶磁の新しいページを開いたその革新性。それが国宝指定の理由でしょう。日本を代表する陶器です。
かつては知多半島・常滑生産説がありましたが、現在は平安時代末の12世紀後半頃に渥美窯で焼かれたものと考えられています。
●国宝 伊勢国朝熊山経ヶ峯経塚出土品
経筒外容器
伊勢市朝熊町経ヶ峯経塚出土 明治27年に発見 高さ32.6cm
平安時代末期の1173年(承安3年)の銘がある
伊勢・金剛証寺所有
これは経塚というお経を埋めるための小山で 内部に経を入れた銅製などの容器を納める保護容器です。
表面には以下の文章が刻まれています。
奉造立
如法経龜壱口事
右志者為現世後生安穏太平也
承安三年 八月十一日
伊勢大神宮権宜正四位下
荒木田神主時盛
□□散位 渡會宗常
伊勢神宮の神主 時盛と渡会宗常が現在と未来の平和を願い、法華経の写経を納める。1173年
といったことでしょうか。
ちょっとわき道にそれますがこの渥美の国宝秋草文壺が発見された時の話を少し。
この壺が発見されたのは渥美半島ではなく、そこから遠く離れた神奈川県川崎市です。
夢見ヶ崎という台地の西端 川崎市内唯一の前方後円墳として知られる白山(はくさん)古墳があります。
古墳自体は昭和12年に桃泉閣という料亭が建設されている時に発見されました。
全長87mの前方後円墳の堂々たる古墳であり、この地区の最大の豪族の墳墓だったのと考えられています。
白山古墳は現在は市街地に取り込まれ、あとかたも残っておりません。わずかに案内の指標が残るだけです。
現在、その近くに、「白山幼稚園」があり、「白山」という名称もかろうじて残されています。
KASE-NET HP より
▲加瀬地区古墳分布
このあたりでしょう。
KASE-NET HP より
▲白山古墳跡にたつ案内板
秋草文壺はこの古墳の後円部の縁から昭和17年(1942)に発見されました。日本住宅営団の土地造成のための土取り工事中にトロッコの路床を作る際に偶然発見されました。
壺が埋められたのは当然ながら古墳造営の頃とは時代が異なり、造営から700年以上後のことです。
壷はほぼ完全な形で発見され、中からは人骨が入っていました。
中世の墳墓の蔵骨器として使われたようでした。
ちなみに古墳からは卑弥呼が大陸より下賜されたという「三角縁神獣鏡」が発掘されているようです。
国宝秋草文壺はその後発見者清水潤三氏から土地の所有者にわたりました。
更に土地の所有者は出土品は古墳の発掘を行った慶応義塾大学にと約束していたため譲り、大学の所有物になりました。
展示は東京国立博物館にされていますが、所有は今でも慶応義塾大学となっています。
一時所有権があった土地の所有者は、慶応義塾大学より中に入っていた人骨の供養料として5円(今では数万円の価値でしょう)を受けとっただけとのこと。
国宝ですから「なんでも鑑定団」ならおそらく数億円の値段がつくでしょう。それほど高価なものが比較的簡単に譲渡され、また安い金額で動いていたことに驚かされますが、これで国民の財産になったんですからこれでいいんでしょう。
発見当時、国宝秋草文壺は粘土を敷きつめ河原石を積んだ遺構の中に置かれており、壺の中には火葬された人骨が詰まっていたということですから、これは骨壺(火葬骨臓器)なのですね。
日本の秋の風景を流麗な線刻文で表現した美術品も「骨壷」と思ってみるとちょっと複雑な心境になってしまいますね。
日本で火葬が一般的に行われるようになったのは西暦700年ごろから。
文武天王4年(西暦700年)3月に僧道昭を荼毘に付したのが始まりであると、続日本紀の記録にある。
大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇としてははじめて火葬にされ、天皇の孫だった文武天皇、同じく孫の元正とその母元明の両女帝もまた火葬に付された。
天皇の火葬により、その臣下もそれにならい 火葬が一般的になりました。
国宝秋草文壺に火葬の人骨が納められたのはそれから400年以上たってからですので一般的だったのでしょう。
●だれの骨なの?
この壺の中に遺骨を納められた人物はいったい誰だったのでしょう。 壺が埋められたのは後世のことで古墳の埋葬者とは関係なし。
残念ながら誰の墓かわかっていません。
平安時代末期ですから、都から派遣された貴族なのでしょうか?それとも流行に敏感な地元の有力者だったのか?
現在でもとんでもなく高価な渥美。当時からかなり高価なものであったはずです。
陶器の壷も当時は高価でしたが、それが特に誉れ高き名品で、はるか遠方より運ばれてきたもの、きわめて特殊で高価な骨壷でした。
でも現在の骨壷も結構いい製品で、いい値段をしているので、似たようなもんでしょう。
そのきわめて高価だった陶器を使うのですから、埋葬者はかなりの財力を持った人だったに違いありません。
・なぜ、渥美の壺が使われたのか?
・どうして南加瀬の地に骨壺として埋葬されることになったのか?
・本来「骨壷」として特別注文されたものなのか、それとも別の目的で作られたものが転用されたのか?
これらもわかっていません。
謎めいた渥美にふさわしい歴史のベールというところでしょうか。
ちなみに壺の中に入っていた人骨は、そのまま北加瀬の寿福寺に納められたとのこと。よかった。
朝熊山経塚群(あさまやまきょうづかぐん)から発見されました。
場所はこのあたりです。
伊勢と鳥羽を結ぶ有料道路「伊勢志摩スカイライン」の途中にありますが、わき道に入ってからは徒歩かバイクでしか行けません。
訪れる人も少ないため 寒々とした風景は近寄りがたい雰囲気さえあります。
40以上もの経塚が山頂東斜面に集中して造られています。
経筒に記された年代は保元元年(1156)から文治2年(1186)まであり平安時代です。
経塚の発見は江戸時代ごろ、遺物も発見されていたようです。
明治27年に老樹の根元から承安3年(1173)銘の陶製経筒が出土し、経塚の存在が知られるようになりました。
昭和35年、伊勢湾台風により付近の土砂が崩れ遺物が外に出てきたのがきっかけで急遽 翌昭和35年に大々的な調査が行われました。
▲発掘時の風景
▲経塚群からは今では木が茂っており眺望はききませんが、木がなければこのような神々しい風景が広がるでしょう。
伊勢神宮とのつながりが強く、ここに経塚を造営しようとした理由も理解できます。
▲朝熊山経塚群の発掘品の一部は近くの金剛証寺の宝物館に収められてます。
残念なことにこの博物館は閉館になってしまって通常は公開されていません。
渥美はこのように経塚のお経を納めるための銅の容器を納めるための容器として使われることが多く 全国でも経塚から発見されることが多いのです。
そのような特別な目的をもって造営された経塚の中核部分に使われる渥美は重要で高級特注品であったはずです。
国宝だけでなく重要文化財もあります。
芦鷺文三耳壺(あしさぎもん さんじこ)と名付けられている壺です。
伝鎌倉周辺出土。愛知県陶磁資料館に展示されています。
▲芦鷺文三耳壺
高さ39.3cm。平安時代末期(12世紀)の渥美灰釉
昭和51年6月5日 国指定重要文化財
粘土を紐のように練り、螺旋状に積み重ねて表面をならす紐造り成形で作られています。
色はごらんのように黒っぽい。
写真はたはら歴史探訪クラブ87より
描かれている線刻画は全面に芦が生える川辺で遊んでいる4羽の鷺で、なかなか完成度が高い。
秋草文壺やこの芦鷺文三耳壺に見られるように独立した絵画を陶器に描く行為は中世に始まったことです。様式の変換点でした。
ところが、渥美古窯やその製品の特徴がわかってきたのは最近40年ぐらいの話で、それまでは各地で発見された陶器やその破片が渥美窯の製品とはわかりませんでした。
昭和38年頃まで各地で発見される出産地不明の壷を人々は「黒い壷」と呼んでいました。
黒い壷というのは、蓮弁文・袈裟襷文が肩に施してある一運の刻文壷の事で、当時、破片の色が黒ずんでいたことと、生産地が不明であるという謎めいた点を、からませて、それを黒い壷と呼んでいたのです。
その「黒い壷」の探索は、静岡県磐田市(あのジュビロ磐田の磐田です)の鈴木東一氏が一個珍しい壷を手に入れた事から始まりました。
そして、昭和38年の「陶説」3月号に本多静雄氏より「黒い壷」の投稿があり、それをきっかけとして、渥美半島への調査が始まりました。
同年、渥美郡史に加治坪沢古窯で発掘された蓮弁文壺の記録のあることを知った鈴木東一氏、鈴木繁男氏、鈴木幸朗氏は、二回にわたって加治農協の天井裏にしまってあった20数個の古い壷を調査して、ついにめざす「黒い壷」蓮弁文壷2個を発見しました。
生産地が不明であった一連の「黒い壷」は渥美古窯で焼かれたものと分かったのです。
もちろん地元の人はそこに窯址があることは知っていました。陶片もたくさんありました。特に山茶碗は、ガンザラと呼ばれ畑・山林・薮の低みなどにゴロゴロしていました。
ただ、窯の址は愛知県では猿投山の南側から岐阜県または浜名湖周辺の静岡県西部まで広く分布しているため特に珍しいことでありませんでした。渥美古窯という独特な特徴を持つ群の概念が強くはなかったのでした。
ということで各地で発見されていた美しい陶器や破片と渥美古窯とを横に結びつけることができなかったのです。
そのような中、昭和30年代、渥美半島では豊川用水路の建設と、それにともなう農業開発によって数多くの古窯が発見され、そして工事のためにくだかれていきました。
そこで昭和40,41年に愛知県教育委員会は、豊川用水路の建設によってくだかれる古窯の発掘調査を行いました。
渥美半島の古窯の調査はもっと前から行われていましたが、この教育委員会の発掘調査が、地元の関係者に古窯の調査、保存について、新たな関心をひきおこさせました。
こうしてドラマチックな 2つの発見が重なったことで、渥美半島の古窯が注目されるようになりました。
このように名品の生産地が長い間わからなかったことは、「渥美窯」が一般の人に知られていない理由の一つです。
渥美古窯は渥美半島の根元から先端までの範囲に広く分布し 現在100群、500基以上の古窯跡が確認されています(400基と解説されている資料もあります)。
窯跡は渥美半島の全域に広く分布していますが、窯の構造上斜面が必要なため、台地の端に位置することが多い。 また、風により燃焼状態が変化するのでそれを嫌い慎重に選ばれ 南斜面が多くなります。
▲主な渥美古窯の分布
詳細な分布地図はこちらです。
渥美の代表的な古窯としては
・東大寺瓦窯
・皿焼古窯
・皿山古窯
・大アラコ古窯
・惣作(そうさく)
・坪沢
・大沢下
・百々(どうどう)
うち東大寺瓦窯跡、大アラコ古窯跡、百々陶器窯跡は国の史跡に指定されています。
皿山古窯、坪沢古窯が県の指定、皿焼古窯が田原市の指定です。
皿山古窯の1つの窖窯だけが発掘状態のまま保存され、公開されています。
同時代に全ての窯跡が活動していたのではなく、燃料を求めて時代とともに移動していました。
まず 芦ヶ池周辺の地域で窯が作られ、徐々に先端と根元の両側に広がっていったようです。
■東大寺瓦窯 国指定史跡
1966年(昭和41年)豊川用水の最終調整池初立(はつたち)ダムの工事中に発見されています。
場所はフラワーパークの北側、初立池(はつたちいけ)の本堤の南。
▲渥美半島の先端に近い地、初立池(はつたちいけ)ダムの堤体のすぐ下にあるゆるい斜面にあります。
現在は埋め戻されて形状がわかる形で保存されています。
発掘調査は,昭和41〜42(1966〜67)年に行われ、12m 前後の3つの窖窯と平窯1つ計4基の窯跡が検出されました。
窯跡から発掘された鐙瓦(あぶみがわら)には「東大寺大仏殿瓦」の文字が刻まれており そのほか軒丸瓦や軒平瓦が発掘され それがこの窯の名称の由来となっています。
瓦のほかに瓦塔、法華経、大日経が書かれた瓦経、陶錘が出土しています。
甕、壷、鉢、山茶碗、小皿、なども多く発掘され 普段はそれら日常雑器を焼いていたと考えられます。
また工房跡,工人住居跡なども発見されています。
ここに古窯があったことは昔から知られており、杉江道雲の「あけむらさき」に図と文章が記録されています。
伊良湖名所記 元禄六年(1693年)
「伊良湖の湾より一里ばかり北にあたり東大寺などいえる伽藍柱礎の跡たへて、破瓦の野外にもとめえしも、近きころまで余も見はべりし」
法橋吾山「朱紫」(貞享3年(1686年))
「伊良湖崎の山間に初立といふ所あり 貞享三寅(1686年)八月農夫古き瓦を掘り出す。径七寸ばかり」「東大寺草創の時瓦をつくりたる」
発掘されたこれらの瓦や瓦塔は、郷土資料館に展示されています。
●東大寺と渥美古窯との関係
東大寺の瓦が渥美で焼かれていたことは渥美を語るトピックスです。
東大寺の起源は全国の国分寺の頂点にたつ中央の寺。その創建や改築は国家的行事でした。
その瓦に名品渥美が使われたのです。
▲発掘された東大寺瓦 田原市渥美郷土資料館とやしの実博物館
この発見以前より渥美に東大寺の瓦窯があったことは指摘されていましたが、この伊良湖東大寺瓦窯跡の発見により、ここが鎌倉時代の東大寺再建の時の瓦を焼いた窯のひとつであることが明らかとなりました。
焼かれた瓦は創建時のものではありません。
渥美瓦が歴史に登場するのは1180年(治承4)源平の合戦において平重衡(たいらのしげひら)により焼き打ちされ、東大寺が焼失した後の再建の時です。東大寺は何回か再建されているのです。
朝廷は翌年に俊乗坊重源(しゅんじょうぼうちょうげん)を東大寺の勧進職(かんじんしき)に任命し,各地から再建の費用を集めさせました。
そして建久6年(1195)に再建されたとき大仏殿の屋根瓦の製作を引き受けたのが備前岡山の瓦場と,三河伊良湖の瓦場でした。
古来渥美半島には伊勢神宮領が多くあり,ここに住む荘官が発注を手配したのかもしれません。
現在の東大寺の大仏殿にはこの瓦が使われていないそうで、わずかに鐘楼(かねをつくところ)の平瓦数枚が渥美と同じタイプの瓦が使われているだけとのこと。
その当時生産された瓦の枚数は5万枚といわれています。平瓦で長さ43cm・厚さ3cm、重さは7kg。全部で350tにもおよぶ大量の瓦はトラックもない鎌倉時代では海路で運ばれました。
近くの伊勢湾側にある福江港より最短海路の伊勢にわたり陸路を行く説と,福江港より船のまま紀伊半島をまわり直接大阪湾に入る海路の説があります。
東大寺ゆかりということで 昭和の大仏殿の大修理のときに、地元の瓦屋で当時の瓦を復元し、若者がそれを背負い5日間かかって運び献納したことがあります。
私は、大阪湾から奈良までの水運が可能なので、奈良の直近まで船で運ばれたのではないかと思います。
ちょっと不思議なのは 平城京の造営の頃には奈良で瓦を焼く窯は既に平窯(ロストル窯)に移行していたにもかかわらず 渥美ではまだ窖窯が使われていたことで、これはもう少し調べてみたいですね。
▲平窯(ロストル窯)と窖窯
ちなみに東大寺の瓦窯は地元奈良のほかに 岡山市の万富東大寺瓦窯跡も見つかっています。
■皿焼古窯
同じく渥美半島先端近く、渥美郷土資料館からも近いところに位置します。
特筆はこの古窯が唯一渥美古窯の実物が保存展示されていることです。
▲皿焼12号窯:保存・展示するために建物を造り、発掘状態のまま公開されています。
皿焼古窯館ということになっていますが、通常は人がおらず内部が見られません。渥美運動公園競技場事務室に申し出るとカギを開けてもらえます。
▲皿焼7号窯発掘状況
皿焼古窯では13基の洪積砂層を掘り抜いた窖窯が発見されています。
平安時代から鎌倉時代にかけての窯です。
これらの窯は、標高50m、面積1400平方メートルほどの、狭い山の斜面をうまく利用して造られており、大きく分け上下2段に構築されています。
写真は皿焼古窯館パンフレットより
皿焼12号窯は その復原長が約14m、最大幅は2.5mで渥美古窯のなかでは中型の部に属します。
焚□を掘り下げて、燃焼室を⊃くり、分焔孔を2つ設け、さらに下降して壁が左右に拡がっています。
床面が船底のように一旦下がって、その後急激に登るところが渥美の窯の特色です。
上り傾斜の焼成室には焼台が敷き並べられ、煙道部は幅が狭められ、全体が船底型に造られており、典型的な渥美窯の構造をしめしています。
写真は皿焼古窯館パンフレットより
また、皿焼12号窯は、船底型の床面が二重に造られているという他には類を見ない窯です。
第一次面の床には焼台や遺物をそのまま残して、その上に天井を削り落とし、粘土を加え第二次の床面が造られていました。
これは窯の形状改良で、最初の窯の形状では温度が上がらないか効率が悪かったのを窯の形状を変えることで解決したのではないかと私は考えます。
結果は良好で 窯の壁面には濃緑の釉がかかったものもあり、窯の中の温度が1,200度に達していたことがわかります。
また壁面や分焔柱にはスサ入り粘土や割れた茶碗・皿で、何度も修理した跡が見られ その後 何回も使われたことがわかります。燃焼効率の優れた窯になったと考えられます。
ドラマ的に推測すると
A.初代の所有者が作った窯をなんらかの理由で手に入れ、その欠点と改造後の能力を見抜き、即座に改造を行った。
先代の焼台や作品は自分にとっては関係のないものだったので、そのまま埋めてしまった。
B.確固たる技術を持ったうえで、さらに高みを求めてチャレンジトライを行い新しい窯形状を作ってみた。
ところが期待した効果が出ず、温度が上がらない窯に職人が業を煮やし、十分な準備もなしに衝動的に天井を削り落とし形状を元の標準に戻した。
C.弟子に窯を作らせて 親方は直感的にうまくいかないことはわかっていたが
それが失敗であったことを弟子自ら感じさせ、その後 親方が正解を示し実証するという職人の伝承方法。
うちC案は1回の焼成には大量の燃料が必要で、半製品も多かっただったでしょうから弟子の教育だけでは費用が莫大すぎ、ちょっと考えにくい、あまりにも現代的だと思います。
いや、職人芸が光る渥美だったら、この程度の教え方はあったのかも、逆にこのようなムダから渥美の名品は生まれたのかとも考えてしまいます。
いずれにしても、熟練の職人は 問題の原因がどこにあるかを即座に判断でき 理想的な窯の形状がイメージできたということになります。だから 大胆な改良が迷いなくできたのです。
渥美の技術の高さを示す証拠品でしょう。
ここでは日常雑器の山茶碗や小皿を主に焼成していました。
甕、壷、片口鉢、陶錘、陶製五輪塔、宝塔、瓦塔、風鐸、舌、子持器台、灯明皿が出土しています。
特に 陶製五輪塔、宝塔片や陶製の風鐸は全国でも例をみません。
写真は皿焼古窯館パンフレットより
▲陶製五輪塔
これは皿焼13号窯という窯から見つかりました。
水輪(中央の丸い部分)を欠くものの全体の姿が類推でき、陰刻の梵字が見られます。
地(四角)「雁(アン)」
水(丸) 欠落
火(三角)「需(ラン)」
風(半円)「衆(カン)」
空(宝珠)「而(キャン)」
という万物の5つの要素を示したものとされています。
陶製五輪塔は他には以下のような例があるようです。
・信楽窯出土の五輪塔
・北九州市八幡西区白岩町にある白岩西遺跡 2基
・湖西窯で焼かれ浜松市浜北区根堅勝栗山出土 愛知県陶磁資料館展示品 重要文化財
・兵庫県姫路市香寺町常福寺 裏山の瓦経塚で発掘された土製五輪塔(国重要文化財)1144年造営
・珠洲古窯で焼かれた鎌倉時代(13世紀)の五輪塔 愛知県陶磁資料館所有
また珍しい陶器製の風鐸も出土しています。
写真は日本陶磁大系より
▲皿焼古窯群で発見された風鐸
■皿山古窯
皿山古窯は皿焼古窯の丘を一つ越えた反対側の斜面にあります。
皿焼古窯址群の東側斜面に築かれた窯跡で、8基のうち3基が調査されています。窯の保存状態が良好な遺跡です。
ここからは、日常生活に使われた山茶碗や小皿、甕、子持器台や香炉といった宗教用具などが出土しています。
▲皿山5号窯の発掘状況
■大アラコ古窯跡
渥美を代表する窯。全国区で有名。さまざまな解説に登場します。(国指定史跡)
芦ヶ池の南西にあり、この周辺が渥美古窯群の密集地です。渥美古窯の最も古い窯があるのもこのあたりです。
▲キャベツ畑の中にポツンと看板と説明パネルがあるだけ。
古窯といえば必ず斜面にあるものだが斜面がない。後背の山地かと思っていたら 実はこのキャベツ畑の下が大アラコ古窯。昔 谷だったものを埋めて耕地としているとのこと。
大アラコ窯は,12世紀初頭から中頃までの比較的短い期間のみ操業されたと考えられています。
この窯からは藤原顕長の銘が刻まれた短頸壷が出土しています。これがこの窯を全国区にしている理由です。
藤原顕長が三河国守だった時期が平安時代末の1136年〜1151年の14年間だけの短い期間なので時代が特定できるのです。
この破片にはごらんのように文字が刻まれています。
正五位下行
兵部大輔兼
参河守藤原
これは正五位下行兵部大輔兼三河守・藤原朝臣顕長と従五位惟宗朝臣遠清の連名による14行の銘文の一部です。
藤原顕長の経塚については後述します。
▲紅葉へら描きの甕破片これも有名な破片 渥美の美
大アラコ窯から発掘された。
■惣作古窯
▲現在の姿 道端になにげなく石碑が建っています。
古窯跡は埋め戻されテープで形状がわかるようになっていますが、茂みに入っていきにくく、下草でよくわかりません。
右は惣作14号窯の発掘当時の写真。
写真は日本陶磁大系より
惣作10号窯址からは「ザレ歌の椀」と呼ばれる小さな陶器が出土しています。(田原町教育委員会所有)
口径9.1cmの小さな碗であり、一面に唐草文が、他の面にざれ歌二首がヘラ書きされています。
やも(ま?)めなと
ながもふ恵
こつびには
そっとあわせよ
ささでうるふやも
やらうかと
つぴはうつつぞ
にはかには
こぴつはいかが
うせなんうせなん
この歌が案内の石碑にも刻まれており、シンボルになっています。
なんとなく色っぽいような雰囲気を持っていますがこの意味が私にはわかりません。
多分専門家の方なら一発でわかるのでしょうが・・・だれか教えてくれー!!
宗教色が濃い国宝級の名品を作っており、官窯のようなマジメな雰囲気がある渥美ですが
このような粋な品物も作っていました。職人の遊び心というか余裕でしょうか。
当時都で行われていた狂歌の影響でしょうから、都の文化にも精通した知的な職人だったのかもしれません。
■百々古窯(どうどうこよう)
大正時代に発見され 渥美古窯の中でもっとも早く発見です。最初の国指定史跡になっています。
田原町の国道42号沿いに案内表示があります。
南向きの傾斜地を利用してトンネル状に掘り抜いた2基の窯です。
指定当初は奈良時代の古窯跡と考えられていましたが、戦後の研究により渥美半島に分布する古窯の性格が明らかにされ、鎌倉時代の窯跡と考えられるようになりました。
ここでは山茶碗、小皿、甕、鉢が焼かれています。 また焼成室の上部が一部残っており、何回も窯が焼かれた様子がうかがわれます。
▲百々窯跡
▲台地の端の南向き斜面にある2本の窖窯。
遺跡は埋め戻されて窯があった位置に石がおかれ大きさがわかるようになっています。
■坪沢古窯
渥美再発見のきっかけとなった蓮弁文壷はここで発掘されたものです。
渥美窯の名をを世間に広めたのは ここの調査結果をまとめた「渥美半島における古代・中世の窯業遺跡」の影響が大きいのです。
渥美窯成立の時期から終末期まで続いた渥美半島最大の窯跡群です。
第2号窯は窯詰めのまま天井が落ちたので生焼けの状態で全製品の様子を知ることができました。
5基が発掘調査され、蓮弁文壺をはじめ、大甕・長頸壺・短頸壺・広口壺・山茶碗など種類・量共に多くのものが出土しています。
大型製品には「万」「大」「m」とも読める窯印があるものが発掘されています。
■鴫森古窯(しぎのもりこよう)跡
田原町相川町に所在します。埋立処分場の建設に伴い7基の窯が発見され、発掘調査が行われました。
ここでは渥美窯全盛期 平安時代末〜鎌倉時代初に 甕・壺・鉢が生産されました。
ここからは窯の床を掘りくぼめて 甕が転がらないようにするための固定の工夫が確認されました。このような固定方法は坪沢1号窯と鴫森7号窯でしか見られません。
この窯で発見された絵画文が記された壺は、渥美窯の特徴といえるもので、その生産時期が意外に新しい時代まで下がることも確認されました。
■へんび古窯址群
出土品の甕(かめ)の口縁端の作りは断面が三角形に引き伸ばされていて渥美窯の古い手法を残しています。
■竜ケ原古窯址群
大アラコ窯の南東700m
芦ヶ池の南東にある雨ヶ森山麓から半島状に延びる舌状台地の北側斜面に9基ありました。
この台地は洪積砂層が基盤になっていて、地積が厚く表土に赤色の粘りの強い上土が覆っています。
出土遺物には、山茶碗、小皿のほかに1号窯の障壁に貼り付いて出土した藤原顕長銘の短頸壺片(「藤原氏 比丘尼源氏 従五位」と刻む)が出土しています。
■大沢下古窯
写真は日本陶磁大系より
▲大沢下古窯の発掘写真、現在は埋め戻されています
■笹尾古窯(田原町)
笹尾古窯は、清谷川と稲荷山にはさまれた笹尾谷に22基の窯があり、そのうちの1基(15号窯)が発掘調査されています。出土遺物には、輪花のある山茶碗、小皿、片口碗、片口鉢、甕、広口瓶、子持器台がありました。
■平岩古窯(芦町)
平岩古窯は、芦ヶ池の南西にある物見山の南側の斜面に2基ありました。出土遺物には、輪花のある山茶碗、山茶碗、小皿などがあり、1号窯は12世紀前半、2号窯は13世紀中葉の山茶碗焼成窯です。
この他
市坊 西高尾 平松 浅場 笹尾 比留輪 平岩 夕古窯 八王子 尾村崎 法蔵寺 院内 などの古窯があるのですがなにせ100群以上の古窯がありますので割愛しましょう。
多くは良くて案内板のみが記されているだけで、破壊されてしまった古窯がほとんどです。
時間さえあれば全ての古窯をたずねてみて、どのような空気の中で職人が作品を作ったかを感じてみたいところです。
渥美の特徴のひとつは地元だけではなく 日本の各地で見つかっていることです。
北は青森県、岩手県から南は九州太宰府までの太平洋沿岸の広い範囲にわたって発見されています。
全国的に分布しているのは主に特別注文によってつくられたと考えられる刻文壷・経筒・外容器・瓦経などの高級品です。
山茶碗などの日常雑器も平泉などで発掘されている例はあるようですが、基本的には地元消費。遠い地で発見されるのは圧倒的に壷などの高級品です。
渥美が発見されるのは経塚や中世の墳墓(はか)のような宗教遺跡からです。
完全さを求め 神のための宗教施設に使うことを目的に 数ある陶磁器の中であえて渥美が選ばれているのはそれが最高級だったからです。
太平洋岸に分布しているのは、舟によって物品が運搬されていたから。重く壊れやすい陶器は船以外の輸送手段はなかったのでしょう。
▲渥美の製品が発見された場所
それぞれの地域で発掘された渥美には名品ゆえの発見されるドラマがあります。発掘された渥美は誇らしげに博物館などに展示、公開されています。
全て調べてゆきたいのすが、冗長になるためここは先を急ぎ 巻末に記録代わりにまとめておきます。
「渥美は青森・岩手から九州にいたるまで太平洋岸の各地で発見される」と・・書いたのですが・・・。
発見されている渥美の「数」の概念を見たマップが以下の図です。
円の面積が発見されている渥美の高級陶器の数です。
ただしこれはあくまでイメージで見てください。
全ての発見されている渥美の数を私は把握できていませんし、平泉、鎌倉など発掘が進んでいる歴史的場所と経塚がありがちな山の奥とは同次元で集計/比較できません。
仮にこれが有効なデータだとすると わかることは全国一様ではなく、特に平泉との結びつきが圧倒的に強く、鎌倉がその次、伊勢はその次ですが静岡県、愛知県と似たようなものです。
愛知県は地元なので多くてあたりまえ。静岡県で多く発見されていることに注目されます。鎌倉、平泉への海路の途中にあるためか、富士山があるためか(その割りに山梨県が少ない)・・・。
生産量が8割の日常雑器を加えるとおそらく圧倒的に愛知県が大きくなってしまうことにも注意ください。
中国、四国、九州の数が少ないのは高級品の領域は中国からの輸入陶磁が占めていたことで説明がつきます。
渥美は全国に分布していたということではなく、平泉と鎌倉、そしてちょっと伊勢に運ばれたというように言いかえましょう。
時の権力者である鎌倉幕府と奥州藤原氏が巨大なスポンサーだったことがわかります。
もうひとつの「渥美」をめぐるエピソードが奥州藤原氏との関係です。■竜ヶ原古窯の藤原顕長銘入り破片
●藤原顕長銘入りの壷
生産地の渥美古窯では大アラコ窯と竜ヶ原古窯をはじめの4ヶ所で藤原顕長の銘が入った陶片が見つかっています。
竜ヶ原古窯址群は赤羽根町(現田原市)にあり、大アラコ窯はそこから北西700mの田原町(現田原市)にありますので 窯が違うとえはいえ 比較的狭い地域でこれらの藤原顕長の壷は作られたようです。■大アラコ古窯から発掘された藤原顕長銘入の陶片は前述
赤羽根町歴史民俗資料館展示資料
▲竜ヶ原古窯窯跡から出土した銘入りの陶片
刻まれている文字は
藤原氏
比丘尼源氏
従五位・・・
朝・・・
と読まれます。
竜ヶ原古窯で発見された壺の破片は かつて赤羽根町歴史民俗資料館でみることができたのですが、2回目に訪れたら展示されなくなっていて、その後閉館されてしまいました。
このような特別なものがあちらこちらで発見されていることには驚かされます。■三島市三ツ谷新田経塚
発見されているものは一部で 同類のものがかなり大量に焼かれていたということでしょう。
生産地での破片だけではなく、完全な壷もいくつか発見されています。■山梨県南部町 篠井山経塚出土壷
これらは経塚で壷として使われていた状態で発見されたものです。
日本陶磁大系より
▲顕長・遠清銘壺 三島市三ツ谷新田経塚出土
これは昭和7年(1932年)に松雲寺と川を挟んで北側の尾根より高木親子により発見されたものです。
このあたりでしょう。
同じ経塚から刀子(とうす)、鏡、火打ち石も出土しました。
渥美からはるか遠方の三島市三ツ谷新田の経塚から発見された壺には同様の次のような文字が刻まれています。
1、正五位下行兵部大輔兼(しょうごいげぎょうぶだいちゅうけん)
2、三河守藤原朝臣(みかわのかみふじわらあそん)
3、顕長(あきなが)
4、藤原(ふじわら)
5、藤原氏(ふじわらうじ)
6、比丘尼源氏(びくにのげんじ)
7、従五位下惟宗朝臣(じゅうごいげこれむねあそん)
8、遠清(とおきよ)
9、惟宗氏(これむねうじ)
10、内蔵氏(くらうじ)
11、惟宗氏尊霊(これむねうじそんれい)
12、惟宗尊霊(これむねそんれい. )
13、藤原尊霊(ふじわらそんれい)
14、道守尊霊(みちもりそんれい)
この内容は藤原顕長と惟宗遠清が同じ目的をもって尊霊の前に供すると言うことが書いてあります。
内容からこの壷の生産年月、更には渥美古窯の時代決定に大さな役割を果たしました。
「尊霊」などの文字があることから土器は久安元年(1145)8月22日待賢門院崩御の際のものと思われます。
山梨県立博物館カタログより■大アラコ出土の壷
▲渥美「顕長」・「遠清」銘短頸壷
山梨県南部町の篠井山山頂から発見された経塚容器。
渥美から海上輸送され、富士川をさかのぼり、富士山が一望できる地にもたらされたものでしょう。
山梨県立博物館カタログより
この壷にも 十四行六十四文字の銘文が彫られています。
愛知県陶磁資料館展示■藤原顕長ってだれ?
▲田原町大アラコ出土の壷
平安時代末期 (12世紀)
この壷には以下のように書かれています。
1.従五位下 惟宗朝臣遠清(じゅうごいげこれむねあそんとおきよ)
2.藤原氏(ふじわらし)
3.惟宗氏(これむねうじ)
4.内藤氏(くらうじ)
5.惟宗氏尊霊(これむねうじそんれい)
6.惟宗尊霊(これむねそんれい. )
7.藤原氏尊霊(ふじわらそんれい)
8.道宗氏尊霊(ふじわらそんれい)
書かれている内容について資料により若干の違いがあるので、現物で確認してみたいところですが
内容は藤原顕長と惟宗が納めたものであることは共通しています。
顕長は白河法皇およびその御猶子(ゆうし)で、鳥羽天皇の中宮藤原璋子、すなわち待賢門院ときわめて深い関係のあることが知られています。
藤原三代秀衡の父基成は顕長の甥です。
藤原顕長は天治2年(1125)に紀伊守に任ぜられ、保延2年(1136)に三河守に、久安元年(1145)に遠江守に、そして久安5年(1149)に再び三河守にもどり、久壽2年(1155)までその任にありました。
つまり、藤原顕長が渥美半島に関係していたのは、三河守であった保延2年から久安元年までと、久安5年から久壽2年までの間であり、顕長銘の入った壷がやかれたのは、この時期であったことがわかります。
おそらくあとの三河守の時期の作品であろうと思われます。
▲藤原顕長系図
http://www.kdcnet.ac.jp/bigaku/Researc/051207touji04.files/frame.html#slide0028.htmlより
藤原氏は中臣鎌足を祖とする公家で 京都の中央で摂関として力を持ち、その親戚は全国に散り複雑な家系です。
藤原顕長は国司すなわち現在の県知事のような人物で 三河の地に短期間 派遣されていました。
奥州藤原氏の系統として家系もあり、中央とも深い関係もあったころから国司に任命されていたのでしょう。
奥州藤原氏3代 特に2代基衡が渥美を好み、藤原顕長を通じて渥美の特注品を大量に焼かせたのと
一方で奥州藤原氏との関係を保とうとしたい藤原顕長側のニーズが一致して平泉に渥美が大量に送られ 渥美ブームが起こったのでしょう。
源氏は最後には奥州藤原氏を滅ぼすという敵対関係ですが、それ以前は同盟関係にあったりしていますので
頼朝以前の源氏に対し渥美を献上したりして外交の道具として使われ、鎌倉でも渥美ブームがあったのではと思います。
あるいは奥州藤原氏滅亡後の最大の権力者としての源氏の諸氏が渥美を求めたのかもしれません。
ならば平泉で発見される陶器片の年代と鎌倉から発見されるものの年代にずれがあるはずですが実際はどうなんでしょう? 調べてみたいテーマです。
もちろん藤原顕長は名前が残っているだけで 藤原顕長に限らず代々の国司、あるいは独自の商業ルートで渥美と平泉/鎌倉を結ぶ太いパイプがあったことでしょう。
平泉、鎌倉からは特注品として大量に渥美が発注、生産されたはずですが、その直接特注品には関係がない顕長自身の名前を入れるわけにはいきませんので、平泉、鎌倉から発見される渥美に彼の名前は刻まれてはいないはずです。
今に伝わる顕長銘の壷は 平泉、鎌倉からの発注品ではなく、自らの信仰心から顕長がスポンサーになり、顕長が命じて焼かせ、彼の活動として経塚を作ったものでしょう。
富士山の見える場所に彼は経塚を作ったという共通項があったのかもしれません。
ならばこれからも富士山の周辺で経塚から顕長銘の壷が発見される可能性も高いでしょう。
顕長と連名で登場する惟宗氏は土師部(はじべ)。■水沼窯
陶器製造のプロデューサーでしょうね。
氏姓制度に「土師氏、惟宗氏を賜る」との記録があり、渥美半島古窯の運営が惟宗氏によって行われていたと考えられています。
短期間しか在任しなかった顕長に対し、長年渥美の工人をとりまとめていた惟宗氏とは良いパートナーでした。
今の感覚で言えばスポンサーは名前を残すが、プロデューサーは名前を残さないのが普通です。しかし刻文壷には並列関係で惟宗氏が名前を残しています。
惟宗氏も金を出したのか、それとも実は全ては惟宗氏の活動で 地元の権力者顕長の名前を入れることで権威づけや見返りを期待したものか、自由な活動を保証されたものなのか。
案外、惟宗氏が経塚造営の主役だったのかもしれません。
よほど藤原氏は「渥美」を好んだようで、とうとう渥美窯の工人を招き、宮城県石巻市水沼に窯を築いてしまいました。■中国一番、渥美は二番
その時の窯の跡3基の発掘調査で黒っぽく茶色の袈裟襷文の固い破片が多数出土しています。渥美ではなく、渥美と同じ様式で焼かれたコピー製品でした。
しかしこの水沼窯、コピー製品の悲しさ、あまり活発な生産活動を行っていなかったようで、製品はごくわずかです。
また産する粘土が粗悪なため、渥美窯に比べ品質も落ちました。
あまり発展することもなく、衰退してしまいました。
藤原氏がこれらの壺を、威信財として使ったようです。
大陸から輸入された白磁四耳壺(はくじしじこ)は、最高級品ととらえられていたようであり、国産の壺はそれに準ずるものです。
国産の壺の中では、さまざまな文様が施された渥美窯産刻画文壺(あつみようさんようこくがもんこ)が一番であり、その下に三本の線が引かれた常滑窯産三筋壺(とこなめようさんさんきんこ)、さらにその下に波状文四耳壺という価値観があったようです。
ふたたび寄り道して渥美や常滑の壷が多く使われている経塚について・・・・■瓦経(がきょう)
経塚とは、平安時代中期におこった末法思想を背景として、書き写した仏教の経典を地下に埋めたものです。
末法思想とは仏の立教後2000年で仏の教えを正しく説く人も、理解する人もいなくなり 世の中が荒廃するという予言めいた考え方です。
今なら、「ふーん、それがどうしたの? それでもいいじゃん」なんて考えてしまいますが、当時の人は大変な恐怖に襲われたのでしょう。それほど仏教が浸透していたのです。
神道もあったのですが それでは救済にならなかったのでしょうね。
末法の世に入り、仏の教えがすたれた後、未来の仏である弥勒が第二の釈迦として56億7千万年後に出世する。
そのときに、地下に埋められた経典がわき出して仏となり、未来の仏と過去の仏とが邂逅する。
そんな映画の1シーンのような場面を人々はイメージしたのでしょう。
わが国では平安時代の永承7年(1052)が末法の初年と信じられ、時の権力者は競って経典を地下に埋めました。
その後、極楽往生や追善供養の性格を強め、平安時代末期から鎌倉時代に最盛期を迎えるようになります。
経塚は神社の境内地や背後の小高い丘陵地に造られることが多く、地表下に小石室を設け、その上に直径約四メートルの小丘状の封土を築くのが一般的です。
寺院の境内、中世墓地群の一角などから発見されていることも多い。
経塚の立地として神聖な場所、大きな岩の下、山の頂上や尾根など眺望がきく場所という共通項があります。
経塚の遺物としては、
@銅や金銅で作られた経典を直接入れる容器。
Aそれを保護する陶器製の外容器
B同時に埋められる鏡、小陶磁器類、刀子などがあります。
Cまれに紙製の経典 すなわち本体が見つかることもあります。
永遠性を求めて経典自身を陶器製にしたり、石に墨書したりということもあります。
末法思想が起こってから既に1000年弱、それから現代に至り、更に仏教が衰退し今では葬式仏教と化し、現代版「末法の世」が言われて久しくなっています。しかし救世主たる弥勒が現れるのはまだ56億年以上先の話です。
一方 タイムカプセルも一時ほどではありませんがさかんに埋められています。
昔の人が56億年先をめざして埋めたタイムカプセル、経典を「開発」「研究」の名のもとに1000年後の我々が掘り出してしまうのは、ちょっと複雑な気持ちです。
今「56億年先まで残るタイムカプセル」を作ろうとしたら、現在の技術者はどのような回答を用意するのだろうか?
博物館の展示で経塚について最も詳しいのは「和歌山県立博物館」。
▲和歌山県立博物館では経塚の断面を実寸復元し構造がどうなっているかを解説しています。
神倉山三号経塚
▲和歌山県新宮市神倉神社 大きな岩があるところには神社がある。
「神がいるとすればここしかない!」ということで誰かが神を祭る場を作る。
経塚を設ける場所はたいていこんなところ。
5,670,000,000年という数字もちょっと気になります。誰かがその数字を考え出したはずなのですが、
・なぜそのように とほうもない数字なのか?
・なぜ そのように中途半端な数字なのか?
・インド?中国?日本?、誰がそれを言い出したのか?
・経典にはどう具体的に書かれているのか?
など疑問はどっさり。調べてみたいですね。
経塚に関しては別途 調査、記述したいと思っています。
●経筒外容器(きょうづつがいようき)
渥美古窯の特注品の一つです
経塚で紙の経文を埋める際には、経文を直接陶器に入れる すなわち経文の容器として使われる例と、経文を銅や金銅、木で作られた容器に入れ、それを陶器に入れる すなわち保護容器として使われる例の2種類があります。
後者を経筒外容器と言います。
経筒外容器のほうが低級とみなされるため、粗雑な陶器が使われたり、転用材で済まされてしまうことも多いようです。
高級陶磁器は経塚の容器として使われることも、墓の骨壷として使われることもありますが、経塚と墳墓とは微妙に様式が異なるようです。
▲このように蓋をかぶせた形で使用されます。
●経筒
経を入れる容器
●経巻
紙でできた経典は土中にある経塚では残ることは難しいのですが、2重の容器や木炭、積み石の保護が働いて、経典そのものが残っている例がいくつかあります。
伊勢市の朝熊山経塚群から発掘された経の本体。
平治元年(1159)に書写された経巻(法華経、観普賢経)、同じく「平治元年」の銘を持つ経筒に納められていたものです。
奥書に「平治元年八月十四日雅彦尊霊、為出離生死往生極楽書写了」とあり、この教典が、夫で外宮神官である度会雅彦の極楽往生を願って書写されたものであることがわかります。
現世後生の安穏を願った経塚がある一方、個人の極楽往生を願う経塚もあります。
写真は日本陶磁大系より■陶製光背
▲妙法蓮華経 伊勢市小町塚出土(1174年)
瓦経とは瓦に経文を刻んだものです。地中に埋納するという点では、焼いた粘土や礫石が最も適しています。
56億年先はどうかわかりませんが、少なくとも1000年間で紙はほとんど残されていないのに対し、瓦経はしっかり残っています。
瓦経は渥美古窯のものがほとんどで渥美を特色付けるものです。
渥美の地名・願主(お祈りをした人)の名が印してあるものも多く発見されており、渥美産であることが証明できます。
伊勢地方から数多く発見され、主に経塚から出土しています。
経文は「大日教・法華経・妙法蓮華経・般着心経」など
銘文には
持法華経者 意根浄若斯 難未得無
是人持此経 安住希有地 為一切衆
能以千万種 喜巧之語言 分別面演
妙法蓮華経巻第六
承安四年單午五月單午庚午廿九日 於南閤浮堤□
東海道三河国渥美郡伊良湖郷□□□
西観之勧進釈迦間末法之時 妙法蓮□□
面如法奉書写了 大勧進金剛佛□□□
壇越度会常章□□□□□
と刻まれている
陶製光背は経塚に副納されたもので伊勢市の小町塚経塚から出土しています。
承安4年(1174)5月から7月にかけて、万覚寺の僧西観・遵西らの発願により、外宮の祠官であった度会常章・春章らが檀越となって作られたものであることが裏面の銘文から知られます。
伊勢神宮の神官(あるいはその縁者)が製作に関与しており、仏教信仰に傾倒していたことを窺わせ、神仏習合のあり方を考える上でも貴重な例となっています。
表に梵字が刻まれており、法波羅蜜・金剛嬉・金剛鬘・金剛歌・金剛舞・金剛法・金剛利・金剛因・金剛語の各菩薩を表しています。
国指定重要文化財
国立博物館所蔵
▲陶製光背
このような芸術的な特注品も渥美窯で焼かれていたことに驚きます。
右側の仏像は 愛知県岡崎市大和町の妙源寺に伝えられた如来座像です。
像底には僧隆円・僧西観・承安4年と陶製光背と共通の銘文が刻まれており、規模も同じであることからこの如来座像が小町塚経塚で出土したものと判明しました。この仏像の光背としてセットになっていたのでしょう。
愛知県で作られ三重県に奉納された仏像が愛知県に里帰りしていたということになります。
文字はこのように刻まれています
藤原菊元
承安四年單午六月日 藤井成重
山吉成
日前宗□
南南閤浮堤大日本國東海道三河國渥美郡伊□
願臨終正念 万覚寺釈迦末法之時
往生安楽国 以白瓷瓦奉造立
周遍十万界 胎蔵□□□佛
利楽諸含識 大願主金剛佛子
値遇慈尊会 沙門西観
必遂供養願 壇越渡会常章
覚悟深秘密 渡会氏子仙王
郎□大覚位 同春章同瀧壽子佐伯國親
磯部氏
同命義子
同命壽子
同心願主金剛佛子尊西僧
永中
乃至先巳後滅
佛師隆円
僧兼仁僧聖賢
貴浅霊寺
出離生死
僧慶印僧教遵
往来極楽
文中渥美の地名がありこれも渥美で焼かれたことが確定できます。
壷や甕の中に肩のところに一文字だけ「へら」で書いた記号が記してあるものがあります。
その文字を窯印と呼ばれ同じ窯内(かまのなか)で焼上げる場合、他者の製品と区別する目的でつけられたものと考えられています。
ということは、一つの窯で何人かの陶工が関与したか、異なる発注者がいたのでしょう。
窯印にはいろいろな文字があり、多いものと.して「上・万・大・十」などがあげられます。
この「上」は伊勢神宮との関係を示す記号であるという説もありますが伊勢神宮と関係のない常滑でも使われているのでよくわかりません。
おもしろいものとして「・・D・P・E」などと読めるもの、あるいは意味があるのか落書きなのかわからないものもあります。
この窯印は、一つの窯に1種類か2種類ぐらい見られ 地域によって異なった符号を使っているところが多いようです。
最高級品をつくりえた渥美の技術も全てが渥美の地で創出されたわけではありません。
技術は積み重ね。ベースとなる技術があっての改良の積み重ねです。
基本的な技術である須恵器の生産技術は 大陸→大阪須恵邑→東山古窯→猿投 というように西から伝わった技術です。
愛知県陶磁資料館展示
渥美半島の根元には二川古窯群という窯跡があります
豊橋市の自然史博物館や動物園があるあたりに窯跡が多く残されています。
これも灰釉陶器の生産窯なのですが、時代がやや古いことを考えると、渥美のルーツだと考えられます。
更にその東、静岡県側、浜名湖西岸の丘陵地帯には時代的に更に古く、古墳時代から続く湖西古窯群という窯跡が発掘されています。
同じく須恵器窯ですが、後には重要文化財級の名品を生み出した渥美に一脈通じるところがある古窯です。
ただし、研究が進んでいないためわからないことが多いそうです。
私は東山や猿投古窯の方から技術が流れてきたのではないかと思いますが、逆に湖西窯が猿投のルーツではないかという説もあるようです。
二川古窯も湖西古窯も展示している博物館はありません。
残念なことに渥美以上に注目されない古窯ということです。
陶器生産技術の流れ
▲湖西窯 五輪塔形経塚外容器 重要文化財
平安時代末期 (久安2年 1146年)
久安ニ年七月廿七日 遠海新所之立焼 五輪土塔」という記述があり、湖西市新所原の湖西窯で製作されたことがわかります。
平安時代から鎌倉時代への移行は 貴族社会から武家社会への大変換点です。
イデオロギーの変換は社会全体の生産性を高めます。明治維新も好例でしょう。
従来の貴族のモラルやしきたり、規制に縛られた伝統的な社会から自由闊達な武家の社会となり、それは平民にもおよび活発な社会となったことでしょう。
生産性が高まることで、効率化も相互的に求められるようになり、新技術がそれに答えます。
その要求はあらゆる場面におよび、農業でも醸造業でも効率的な生産が求められ、その要求に対しより大型で効率的な器がもとめられたのでしょう。
穀物貯蔵や水瓶、播種や施肥の段階で大型の容器が必要となり、酒づくり、染色でも生活でも より大型の甕や壺が求められ、結果、それらの需要が急激に増えました。
一方 生活でも日常の食事のスタイルも変わり、食物を分けて配膳するため皿や小鉢雑器が必要になりました。
その一般大衆の求めにより、新しい陶器の巨大な市場が創出されました。
その市場の需要をまかなうため、渥美を始めとする各地の中世古窯が歴史の舞台に登場することになったのです。
中世古窯は、陶器を作るための原料や燃料などが容易に入手できる場所であるとともに、製品を便利に運搬できる海上輸送に適した場所に一般的に立地しています。
渥美はそのような条件に合致し、選ばれ発展することとなりました。そしてなによりも要求に答えるベースとなる技術がありました。
渥美の地は複雑な支配体制でした。三河の守の直領であったり、伊勢神宮の直轄地であったりしました。
複雑さゆえにそれぞれの権力があるときは三すくみ状態、あるときは権力闘争の場になったりしたのでしょう。 スポンサーが活躍できる舞台があり、それぞれの権力が限られた地に対し積極的な投資をしようとしたのかもしれません。
渥美の地にはスポンサーとスタープレイヤーがいて、しかも技術に対し戦略的に投資が行える素地があったのでしょう。
自由闊達な雰囲気、積極的な投資、トップダウンの政策決定、直轄の良い面が出たのでしょう。
陶器生産はその当時の最先端技術。時の政治や宗教の権力者が自分の権力を誇示するため、あるいはアピールのためのモノづくりのために 技術者を集め、テクノバレーやサティアン(ちょっと古いですね)を作るようなもの。
こうした背景で周辺の影響で発生した渥美が 時流に乗り大きく発展してゆきました。この地域にはその素地があったのです。
▲伊勢金剛証寺から見た渥美半島と神島。
船でわたれば すぐの距離。
伊勢神宮の神官たちがスポンサーだとしたら渥美半島の窯は「見える範囲」に位置しています。
「自分たちの工場」として戦略的に操作、活用してゆくという発想は自然なように思われます。
高級ブランドとして もてはやされ 大きく発展した渥美。
ところが その後 時代とともに渥美の品質が低下していってしまうのです。
たとえば山茶碗の作り方にもそれは現れています。
渥美はその様式により三つの型式にわけているのですが その技法は時代とともに技法は稚拙化しています。
<第1型式>もっとも このだんだんと品質が低下してしまうという現象は渥美に限らず、猿投古窯でも起こっていることです。
輪花(口の縁が一定の規律で出入りしている形)のあとがハッキリしており 高台(茶碗の底についている台)もしっかりついています。
<第2型式>
輸花のあとがほとんどなく高台も雑でわずかにつけられているにすぎません。
<第3型式>
高台はまったくなく、ロクロ成形の跡がハッキリ残っており(右回転)底には糸きりの跡が残っています。
つまり使う表面は整形しただけで仕上げていない、見えない下側は加工が省略されています。
日常雑器の需要が急速に増大したり とにかく大きく効率的な製品が求められることで、緻密な芸術製品を造る余裕もなくなってしまったと見るべきでしょう。
特注品の生産量も急速に減少し、最後は甕や壺を焼かなくなってしまうとことがみられます。
これは裏をかえせば、当初 非常に高価なものだった陶器が、大量生産により一般層へ需要が広がったということです。
その一般化の過程でブランドやイメージよりも価格や安定した供給性が求められるようになりました。
そのような中で瀬戸や常滑は生産量を伸ばしてゆく。
一方 高級ブランドとして強みを発揮した渥美はその特色が失われ重視されなくなり、
生産力や低コストが重要なファクターとなるなかで 材料の欠点や職人の誇りがクローズアップされ、じゃまになってくる。
ちょうど独創的で先進的だが高価だったMACが一時はもてはやされたにもかかわらず、パソコンの普及により後発的だが価格が安かったWINDOWに駆逐されてしまったのとよく似ています。
高価な芸術品のような工業製品が一部の客層にマニアックに受け入れられ、高価ゆえにあまり普及していない所へ、中国製の安価な製品がどっと入って一般層へ普及する。そしてマニアも高級品から離れてゆくという構図は現在でも多くみることができます。
●渥美の古窯の構造的特徴
渥美の窯は斜面にトンネルを掘りぬいて作った「窖窯(あながま)」です。
渥美以前 既に多くの改良がなされていました。
・当初は 山の斜面に溝を掘って粘土で天井を加える構造であったが、トンネルを掘り抜く構造にしたこと。
・燃焼室の炎を2つに分ける分焔柱の発明。
などがそれにあたります。
渥美古窯はそれに加えて独特の窯の特徴があります。
・焚き口部から傾斜して下がり、燃焼室との境の部分がもっとも低くなる構造(舟形構造)
・全長15m以上のものが多い。中には20mにも及ぶものがあり、一般的に他の地域より規模が大きい
・当初は分焔柱があったが、終末期の窯ではそれが無くなり、代わりに燃料室と焼成室の間に低い壁がつくられて炎を上に上げる工夫がなされた。
・床の傾斜は初期ほど急だったが時代とともに傾斜が緩くなっている。
・初期には大甕、壺と山茶碗、小皿が同じ窯内で一緒に焼かれたが、
次いで大甕、壺だけを焼く窯と山茶碗を焼く窯が別になり併設されるようになり
最後は甕や壺を焼かなくなってしまう。
これらの特徴の共通項はズバリ、「生産効率を高めるための工夫」です。
●生産効率
窯の容積が大きく方が表面積と体積の関係から生産効率は良くなる。エンジンでも大排気量の方が小排気量より概して熱効率は良い。
窯の大型化により、使う燃料は増えるが、中に入る半製品の個数はもっと増え、製品一個あたりの燃料消費量は小さくなります。
効率を求めて窯は大型化させたいのですが渥美ではそこに大きな困難が伴いました。
渥美の窯の多くは黄色砂質のシルト層にあり、そこをトンネルのように掘り抜いて作られています。
厚い砂質の洪積層が傾斜している土地を選び、燃焼部を掘り、左右二つの穴をあけそこから焼成部をほりぬくという手順をふみました。(斜面を下から上にトンネルを掘った)。
渥美半島の地質は珪砂層の純度が低く、大型の窖窯を掘り抜くとどうしても天井が崩れてきてしまう。特に窖窯の火度を高めてゆくと天井が持たないという欠点を持っていました。
そこで舟形構造や燃焼室の障壁、傾斜角度など温度ムラをなくす工夫が必要となり、それらとのバランスでかろうじて窯を大きくすることができたのです。
▲皿焼12号窯
しかしそれにより 非常に脆弱な窯になってしまっていたという欠点を背負い込んでしまい、滅亡の時のもろさとなってしまいました。
温度ムラの減少も 別の生産効率向上をもたらしました。
温度ムラによる失敗作の減少、すなわち歩留まりの向上を狙ったものです。
燃焼室と焼成室の間の壁や、製品のサイズごとに統一させたのもこれが目的でしょう。
●活発な技術開発
このような積極的な技術開発は渥美の特色です。
単純な「作業」だけにあきたらず、失敗覚悟で次々と新しい技術をトライしてゆく。
熟練だけではなく、更に高みを求めて挑戦してゆく職人集団。そんなイメージができてしまいます。
「渥美半島の土」・・・ところがこの粘土が問題で、質が悪いのです。
ずーと昔、人類が誕生する前の500万年ぐらい昔(鮮新世のはじめ) 名古屋市のあたりに琵琶湖の何倍も大きい広大な湖がありました。
「東海湖」と呼ばれています。
昔の木曽川など この湖に流れ込む川が周辺の山の花崗岩を砕き、運び、浅く流れも波もない淡水の湿地帯に流れ込み、そこで きめの細かい粒子だけがゆっくり湖底に降り積もり、良質の粘土の厚い層となりました。
瀬戸の粘土は「木節粘土(きぶしねんど)」と呼ばれるものもあり 炭化した植物が混じっています。植物が浅瀬に繁茂していたということでしょう。そして200万年前にはこの湖は粘土で完全に埋まってしまいます。
だから 東海湖の周辺部にはリング状に良質な粘土が存在しています。
この良質な粘土が大量にあったおかげで瀬戸も常滑も美濃も陶器生産の場となったのです。今でも採掘が行われていますが、尽きることはありません。
ところが渥美はそのリング上にはありません。渥美はこの東海湖からは大きく外れた地域にあり その恩恵にあずかれず、主に浅い海に堆積した砂がルーツとなっています。
粒子も粗く、粘り気も少ないため 薄く作るのも、大きなモノを作るのには必ずしも向きません。
だから、表面が粉っぽくなり、厚く重くなり、大型の製品も少なくなったのです。
砂質の陶土は耐火度が低いのです。すなわち高温に弱いため温度が上がりすぎると窯の中で壷の形が崩れてしまいます。
この欠点は製品を大型化させるのに困難が伴います。にもかかわらず渥美には大型の甕がありますので、それを作るには熟練の技が必要だったのでしょう。
この絶妙な温度コントロールを必要とする陶土が、芸術品としての高度な職人芸を発達させた駆動力となったと同時に、歩留まりの悪さという大量生産時の致命的な欠点を合わせもっていました。
瀬戸や美濃の窯はその後も長期間 現在に至るまで存続したのですが、渥美は早くに消えてしまいます。
渥美窯の衰退の原因は?
一言で言えば 常滑との競争に負けたということです。
・土が砂質で大型化が難しく、薄くもできなかった。歩留まりも悪かった。
最終的にはコスト差でしょう。
その差を埋めるように いろいろ工夫はされてはおりましたが、限界はありました。
・ブランドの価値を保っていた最高級品の需要が衰えてしまった。
武家社会になり貴族社会の流行が否定されてしまった。
末法思想の衰退により 経塚の造営が減少し、最上級の製品の消費先が少なくなってしまった。
少量芸術品の製品を作るのに特化した製造工程(コストよりも品質重視)は、経済性を重視される大衆品を作るようになった段階で常滑や瀬戸の生産技術にはかなわなくなった。
・それまで支えていたスポンサーがいなくなってしまった。
神宮領が多かったため、武家勢力の進出により支配勢力が変わった。
・いったん衰退が始まると技術の伝承も難しくなり、技術開発も活発さを失い、徐々に衰退してしまった。
・製品の大型化の要求に応えられなかった
これも技術的限界なのですが、製品が農産物や肥料の貯蔵、醸造の道具として普及してきたときに、甕や壺の大型化が要求されたことでしょう。
それが窯や材質のために困難になったとき、より容易に大型化可能な常滑の製品が近くにあれば それは勝負になりません。
いちばん最初に出した問いの、なぜ多くの人が渥美を知らないのかという問いには 既におわかりのように、
●渥美窯の作品は長らく産地不明となっていたこと
わかってきたのがわずか40年ほど前のことだからでしょう。
●現在まで窯業が継続しておらず、記憶から遠ざかっていること。
●陶器が一般の人に多く広まってきた室町、戦国時代にはすでに渥美は衰退していたこと
●渥美の製品が極端に少なく、骨董品の市場に出回っておらず、あってもきわめて高価で 一般の人の所有の対象となっていないこと。
これが主な理由と考えます。「渥美」の質が劣っているわけではありません。
渥美製品は8割のレディーメード商品と2割のオーダーメイド商品でなりたっていました。
オーダーメイド商品を特色とし、それを作る技術ではどこの誰もまねができないものでした。
高度技術を持った技術者集団も育ちました。オーダーメイド商品を作るための技術は次々と開発され、
ブランドイメージも最高で中央ではそれがもてはやされ それは高価格で販売され、スポンサーもそれを要求し、工人集団もそれにこたえました。
低価格大量生産方式でゆくか、高価格高級品少量生産方式でゆくか という選択肢は現在の企業でも多くみることができます。
たまたま渥美の窯はその後者を選択したのです。時代もその選択を要求しました。
結果として、多数を占めるレディーメード商品は軽視され、そのコストダウンのための技術開発はなおざりにされました。
高級品少量生産で養われた技術は大量生産レディーメード商品には応用がきくものではありませんでした。
ブランドイメージも低価格商品には何の役にもたちません。
ところが時代が変化してニーズが変わってしまいました。
需要が急激に伸び、低価格が求められ、価格が崩壊し・・・
また高級品を求めていた貴族は少なくなり、荒れた世の中で宗教も薄れ、高級品は無用の長物となってしまいました。
そう!、渥美は時代の変化を見誤ったのです。
その変化に気がついた時にはすでに手遅れでした。
仮に戦略を転換してもどのみち生きてゆくことはできなかったでしょう。
そして 滅びてしまいました。
あるとき権力者が近くで陶器を焼いているという話を聞き、自分の所でもできないかと陶工を連れてきて窯を開いたら、うまくいった。
しだいに技術が向上し、土地の土の性質と燃料の木と空気を知りぬいた熟練した陶工も現れてきた。
パトロンの庇護のもとにオーダーメイドの最高級品を作った。
豊富な資金の中では経済性はあまり重視されず、その代わり名人芸のような技術は発展し、国宝級の名品を多く生み出した。
渥美のブランドは上流社会でもてはやされ、遠方まで大事に運ばれ大切にされた。
金で取引されることよりも、贈答品や下賜の形で供給されることも多かった。
国家プロジェクトである寺の再建の時も、特別注文が来た。
パトロンがいたために土の質が悪くても、その地を離れることはできなかった。
その厳しい技術上の制約が陶工の名人芸に更に磨きをかけた。
しかし、あるとき時代が変わってしまった。
パトロンの力が失われ、冷酷な「経済性、市場原理」の波が押し寄せた。
渥美のブランドは新しい顧客である一般層には何の価値もなかった。
名人芸はこの波の前にひとたまりもなかった。
かつて名品を作っていた陶工もプライドを捨てて、質が悪くてもコストが安い製品を作ろうとしたがどうしてもうまくいかない。
レディーメイド戦略で対抗した常滑が低コストを武器にやがて市場を席巻してゆく。
窯の煙が一つ減り、二つ減り・・・
やがて窯の煙は全くみられなくなり、かつて活気と職人の誇りにあふれていた海沿いの町は小さな漁業の町へと戻っていった。
渥美の名前も窯の場所も忘れ去られ、たまに日本のあちこちで見つかる壺を見た人々は「このようなすばらしい作品をいったいどこで作ったのだろう?」といぶかしんでおりました。
渥美の窯の200年のお話 おわり