愛知県の製塩の歴史

知多半島、渥美半島、西尾市一帯等の三河湾に面した地域から製塩土器と呼ばれる器が発掘されます。
しかも非常に多くの場所からたくさん出てきます。
だからそれを展示している博物館もたくさんあります。
どこでも見られる製塩土器の展示をもっと楽しく見るため、愛知県の製塩土器をちょっと調べてみました。

愛知県は古くは一大製塩地帯でした。

塩は今でこそ非常に安いどこにでもある食品です。
むしろ過剰摂取が問題視されているくらいのモノですが、昔は貴重品でした。
日本は海に囲まれてはいますが、高温多湿の気候のため、塩を採取するためにはかなりの燃料と労力が必要とされます。
効率のよい製塩を求めてたえまぬ技術進歩が行なわれました。その足跡を追ってみましょう。

記録された塩の産地

流通した生産物としての塩が記録に残っているのは平城京で発掘される木簡が最初。
木簡とは紙が貴重品だった時代に短冊状の木に文字を記録したものです。
奈良で発掘される木簡に愛知県の地名が残るものがあります。

   

これは税として地域の特産品(調)を中央に納入したときに 塩の荷に付けられて愛知県から運ばれたものです。
当時の首都平城京で消費された塩の中には愛知県産の塩があったことを示します。
愛知県だけではなく西日本を中心として各地の地名が塩の産地として記録されている。
中でも若狭湾の地名が残る木簡は多いのですが、愛知県も尾張と三河を合わせた数はそれに続きます。



▲平城京に運ばれた塩の産地。



▲奈良で発見される塩の産地別木簡比率

製塩土器の発掘地



古墳時代から平安時代にかけての製塩土器は愛知県内沿岸部ではかなりの密度で発見されます。
主な分布地帯は渥美半島、三河湾岸、知多半島です。



もう少し詳細に見ると・・・渥美半島での製塩土器の発掘場所。
狭い地域にこれだけの製塩遺跡が残っているのは、
製塩の作業は陶磁器の窯と同じように大量の燃料を消耗したため、
付近の森林を全て燃やしてしまい、燃料を求めて移動したからではないでしょうか。

愛知県の製塩土器

愛知県内で発掘される製塩土器は主にはこのタイプです。

 

▲棒状尖底といわれています。

大きさは直径8〜10cm、高さ20cm程度。ソフトボールぐらいの比較的小さな容器です。
粗雑なつくりでいかにも大量に早く作ったという感じですね。

尖った底の部分を砂に刺して、下から火を焚きます。
塩水を沸騰させて水分を飛ばし、水が減れば次々と塩水を注ぎ足して塩を析出させます。

完全な姿で出土する例は少なく、ほとんどが下の角が折れた状態で出土します。
博物館で展示されているのは多くはこの角の部分です。
おそらく角をたたき折り、析出した塩を容器ごと出荷したためではないでしょうか。

日本全国このタイプかというと、実は全く異なっています。
形もサイズも日本各地で相当大きな差があります。
この知多、渥美の製塩土器のタイプは 伊勢湾のこの地域だけに見られるものです。

日本各地の製塩土器はこちらをごらんください。

愛知県の製塩土器の歴史

愛知県に土器製塩の技術が伝わるのは 3世紀末の古墳時代前期のことです。
縄文時代も弥生時代も製塩土器としての発掘は今のところないようです。
おそらく朝鮮半島から伝えられた技術が備讃瀬戸の瀬戸内海沿岸に伝えられ、大阪、和歌山を経て愛知県に伝わったのだと思います。

渥美半島と知多半島は似た歴史を歩みますが、仔細に見ると若干異なった歴史を歩みます。

初期の製塩土器

400年ごろまでは底に台が付いた直線的なものが使われます。
上の写真の左側の製塩土器のタイプです。
このタイプは他の地域でも見られるので「伝えられたモノ」という感じがします。

中期の製塩土器

400年頃から台座の部分が伸びてきて、背が高くなり、それにつれて器が丸く、薄くなります。
500年頃には台座の底面の部分が無くなり尖ってきて、角になります。
これは石敷きの製塩炉がなくなり、粘土による製塩炉に変わってきたためではないでしょうか。
サイズは大きくなり2L程度の容量になります。

後期の製塩土器

700年頃、奈良時代にはサイズは再び小さくなり、1L程度の容量になります。
脚はますます細くなります。
この頃の塩が調として奈良の中央政府に送られました。

7世紀には知多式3類が知多半島や三河湾沿岸地域において普遍化し、塩生産の規模が拡大します。
尾張国は調庸塩貢納国 三河国は調塩貢納国尾張国

そして、平安時代の1100年ごろには衰えて遺跡は見られなくなってしまいます。

ちょうど土器製塩自体が無くなってしまい、塩田、土釜、鉄釜に移行してゆく時代です。
しかし、それらは愛知県では発掘されていません(?)
それらの新技術を使って大量生産する瀬戸内地方との商品競争に敗れてしまい、市場から姿を消してしまったのだと思います。



▲愛知県の製塩土器編年

知多半島の製塩土器

塚森類
名和町 塚森遺跡出土 5世紀
瀬戸内地方で弥生時代から始まった土器製塩の技術が、古墳時代前期になると各地に伝わりました。
塚森遺跡から発見されたこの土器によって伊勢湾にも伝わったことが証明されました。
知多半島製塩土器の塚森類として区分されています。
杯を伏せたような台の上に、丸みをおびた器が付きます。



知多式製塩土器

 

尾張独自の製塩土器。
筒形脚の最も古いものです。
(5世紀後半− 知多式0類)

知多式製塩土器

   

▲1類(5世紀)       ▲1(A)類(6世紀前半)      ▲1(B)類(6世紀後半)

 

▲2類(6世紀後半)

 

▲3類(7世紀前半)

 

▲4類(8世紀〜9世紀、7世紀後半〜)

 

▲5類(10世紀前半)

渥美半島の製塩土器



▲愛知県の製塩土器 時代別 左から初期、中期、後期 (渥美半島)



▲渥美半島製塩土器編年




▲最上段 青山の製塩土器 5世紀中頃
 弥生時代のものより小型になり器形は細目のグラス形で、器の先が開いています。

中段 八幡上製塩土器 6世紀後半頃
器形はロート形になり、脚は先が開いているものからしだいに棒状になり、先が平らになってきました。

下段 市○松製塩土器 7〜9世紀頃
器形はワイングラス状になり、脚は細い棒状になりました。

代表的な製塩遺跡

松崎遺跡

東海市大田町松崎 知多半島西岸基部、伊勢湾に面した砂堆上に立地。
知多半島の製塩遺跡として有数な規模を持つ。
5世紀後半に製塩を目的とした集落として成立した。
和歌山県西庄遺跡とも発掘物に共通性が見られ、大阪湾から製塩技術が人とともに技術導入されたことをうかがわせます。

大型の前方後円墳が造営される時代、5世紀から6世紀にかけて東海市の海岸部では、塩生産が本格化します。
その代表的な遺跡が松崎遺跡です。
遺跡からは製塩土器が大量に見つかっています。
古墳時代の製塩土器のほか、奈良時代から平安時代の製塩土器もみつかっています。



▲製塩土器が貝塚のように層状に集積しています。

http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo06/0605hayan.pdf

上浜田遺跡

東海市大田町上浜田
古墳時代前期に、土器製塩の先進地であった大阪湾岸地域の影響を受けて、知多半島の付け根である東海市で土器製塩を試行した姿を伺い知ることのできる古い形の製塩土器が見つかりました。
この試行を経て、塩作りを定着発展させていった経緯を明らかにすることができます。
尾張における古代の塩作りは、伊勢湾に面するこの地域が中枢地となり、ここで、確立した製塩土器が、古墳時代中期には、一気に半島全域と三河も含む知多湾岸域に拡大していったと考えられる。



http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/kiyo06/0605hayan.pdfより

ドウツン松遺跡

渥美半島の先端部、西の浜一帯の堆積平野には、古墳時代から平安時代に塩を作った遺跡が15ヵ所も確認されており、古代製塩が盛んだったことを物語っています。
「ジャンボ伊良湖」(施設名)の浴室のあたりにも遺跡が確認され、ドウツン松遺跡と名づけられ昭和62年に発掘調査が行われました。
っこからは製塩作業小屋と考えられる遺構とともに、多量の製塩土器の支脚と破片、生活具と思われる土師器、須恵器が出土し、これらは飛鳥・白鳳期(7世紀)を中心とした資料であることがわかりました。
ドウツン松とはこの地域にあった20mもの高さの巨大松の名称でした。

岬1号製塩遺跡

小高い円形のマウンドを中心とする周辺が7、8世紀に土器による塩作りが行われた遺跡です。 塩作りの方法は、海水をいったん塩釜という土で造った釜に入れ、ある程度まで煮詰めます。 この濃くなった塩水を製塩土器といわれる、コップの底に角を付けたような形の土器に移し変え、半円形のマウンドに立てます。
その土器の周りで火を焚き、さらに水分を蒸発させ、土器の中にたまった塩をとる方法で製塩作業が行われていたと考えられています。
西の浜一帯には51基にのぼるこのような製塩マウンド(製塩遺跡)が数えられ、土器製塩専業集団による、一大製塩地であったといってもよいでしょう。
この製塩専業集団は木簡にも見られるように周辺の集団と比べ、より大きな勢力を持っていた「海人族(あまぞく)」であったと思われ、参(山)西法師の歌にも「わが恋は、いらこが崎の海人なれや 焼く塩がまのけむり絶えねば」と歌い込まれ、海人が盛んに製塩に従事していたことを偲ばせています。



愛知県の製塩土器技術の流れ



▲3世紀に知多半島の基部に関西から伝わった技術はやがて渥美半島に伝わり、相互に関連しあいながら独特の進化をとげます。

製塩土器の作り方



▲土づくり
粘土を採取する。採取場所は大浦湾内 (海水浴場の西)。図を参照。
採取した粘土は1年間屋外で天日や夜  霧、霜に当てて粘りを取る。
粘土だけでは乾燥時に収縮して亀裂が発生するため、砂を混ぜる。
水を加え、3〜4時間練り上げる。
冷暗所で2日以上ねかせる。

▲土器の成形
ねかせた素地土を再度練る。
成形。三河地方の製塩土器は、ひも積み上げ式が一般的だったとされる。
風のこない日陰で約2週間乾燥させる。

・土器内側の「つぶし」「磨き」
 陰干しの後、ハマグリの殻やヘラを使って土器の内側を平らにする。

・天日乾燥
 焼く当日、半日ほど天日干しをする。



▲焼き上げ
野焼き/縄文時代の焼成方法。
覆い焼き/弥生時代以降の方法。三河地方の平均的な焼成方法と思われる。
全体を灰や泥で覆うため、熱が逃げにくく均一に行き渡る。

http://www.japan-net.ne.jp/~benten/history/saron/gallerly/tomin/minwa/5Mreport2.htm
佐久島HPより

なぜ土器だったのか?

古墳時代の後半5世紀にはすでに須恵器が誕生しており、愛知県でも猿投山南西麓(三好町)を中心に大量の須恵器の生産をしています。
製塩の職人も須恵器は入手可能であったはずです。
須恵器は土鍋のようにけっこう丈夫そうで繰り返し使えそうです。
一方、土器は水を通すため鹹水を煮詰める工程には不向きのように見えます。

ちょっと疑問だったのですが、蒲刈町HPの製塩実験を見て疑問が氷解しました。
須恵器では冷たい鹹水を追加して注入するときに温度差で割れてしまうのだそうです。
そのまま輸送に使うのであれば値段も問題になったのでしょう。
おそらく須恵器はその当時土器と比較してかなり高価なものだったでしょうから。

土器製塩の工程

製塩は
1.海水の濃度を高める「採鹹(さいかん)工程」
2.鹹水(かんすい:濃縮した海水。鹹は"からい"という意味の字です)を煮詰めて塩を析出させる「せんごう工程」
の2つからなります。
それぞれの工程で系統的な技術進化がなされています。

最初から海水を煮詰めてゆけば いずれは塩ができますが、貴重な燃料を消費してしまいます。
今のようにガスや石油があれば話は早いのだが木材を燃やす場合には燃料を集めるのが大変。
製塩では原料は海、燃料は山なので運ぶのが大変だったのでしょう。
したがって、海水を天日と風でで極力濃度を高めたい。
採鹹(さいかん)工程はまさに効率的に濃度を高める工夫です。

採鹹(さいかん)工程

土器製塩での海水から鹹水を作る方法は つまるところ はっきりしません。

塩田はまだありません。 「夕凪に藻塩焼きつつ」と万葉集に詠まれ、これを含む長歌を本歌として藤原定家が、「来ぬ人を松 帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」と詠んで百人一首におさめた有名な和歌がある。

いくつかの説があります。
赤穂市歴史博物館の広山尭道氏によると、
1.乾燥藻を焼き,その灰を海水に入れ,あるいは海水を注ぎ鹹水(濃厚な塩水)を得て,これを煮詰める.
2.乾燥藻を焼き,その灰を海水で固め,灰塩をつくる.
3.乾燥藻を積み重ね,上から海水を注ぎ,鹹水を得て,これを煮詰める.
4.乾燥藻を海水に浸して,鹹水を得て,これを煮詰める.
5.「莎藻」という陸の植物を焼き,これに海水をかけ,鹹水を得て,これを煮詰める.
6.「もしほ」とは「ましほ」のことであり,藻ではない.もしほ草とは鹹砂(塩分結晶の付着した砂)をさす.これを採集して,海水をかけて鹹水を得,これを煮詰める.

もと愛知県埋蔵文化財センターの森勇一氏は,古墳時代から平安時代にかけての製塩遺跡「松崎遺跡」(7・8世紀)から出土したの製塩土器40〜50片(大きさ,4×5p程度)を調べた。
珪藻は植物プランクトンで、10〜100ミクロン、ガラス質の殻を持つので残りやすい。
結果
・どの破片も200個以上の珪藻遺骸を含んでいる。
・種類はほぼ7つで,その7種類のすべてが海に住む珪藻で,しかもそのほとんどが,ホンダワラなどの海藻や海草の葉や茎に付着する「付着生珪藻」であった。
・松崎海岸の近くの海には,その当時もおそらく海藻や海草が密生していない。
・製塩土器が存在していた砂の層に含まれている珪藻の遺骸は微量であること。

製塩土器から珪藻遺骸が発見されたことによって,上記の5.6.は考えなくてもよいことになった。 http://www2.sozo.ac.jp/pdf/kiyou21/OBAYASHI.pdf

海草の採取



当時の海にはどの程度のホンダワラなどの海草があったのでしょうか。
今では海草を採取することはほとんどなされていませんが、製塩地帯と言われる海岸を歩いてもそれほど多くの海草を見ることはありません。
(あるところにはありますが)
焼いたとするとけっこう消耗が激しかったのではと思います。
海岸に点在する製塩遺跡は あんがい海草がたくさん採れる場所を選んで選定されたのかもしれません。

海水を海草にかける

ここで説は大きく2つに分かれます。
一つは 竹のスノコなどの上に海草を載せ、下に容器を置き、海水をかけるという説です。

 

▲ホンダワラなどの海草に塩水をかけて天日と風で水分を蒸発させ、濃度を濃くする。

この説の根拠のひとつとなっているのは、塩釜市の神社で行われている神事です。

 写真は「塩釜もとまち街歩き」HPより

鹽竈神社の末社・御釜神社で行われる古代製塩の神事。
7月4日に、花渕浜でホンダワラ(海藻)を刈り取る神事が行われ、
5日に神釜の水替神事、
6日に古式にのっとり藻塩焼神事と御釜神社例祭が斎行されます。
宮城県の無形民俗文化財に指定されています。

ここでは上記のような方法で鹹水が造られます。

乾燥させた海草を焼いて灰をつくる

もう一つの説は 海水に海草を浸して、乾燥させ、何回か繰り返した後、焼いて灰を海水に解いて濃度の高い海水を作るというものです。



海水に浸した海草を乾燥させる。
この作業を何回か繰り返す。



塩分が付着したホンダワラを燃やすと、軽石状の灰の塊が採れる。



灰を再び海水に解き、濾過すると濃い塩水ができる。

実際に製塩実験をされた方がいて、その結果では
ホンダワラに海水をかけて濃縮する方法では
・効率が悪い
・匂いがひどく、作業者に苦痛を与える。

それに対し、ホンダワラを塩水に漬けて乾燥させ、何回かそれを繰り返し、焼く方法は
・効率が比較的良い
・付着している塩分濃度がある程度高いと灰は軽石状に固まり、作業性が良くなる。
・味も良くなる。
とのことです。
(蒲刈町HPから引用させていただきましたが呉市との合併によりHPは行方不明です。)

こちらの方が説得力がありますので、ここでは後者の説を採用します。



製塩土器で鹹水を煮詰め塩を結晶化させる



 

▲製塩実験の状況

焼 塩

万葉集の時代の山上憶良の「貧窮問答歌」の中に、貧人が堅塩をなめなめ糟湯酒を飲む、といった内容の歌がある。
「せんごう」で得られた塩は「荒塩」と呼ばれ、苦汁を含んでいる。
それはは吸湿性が高く、時間がたつと液体化してしまい、計量しにくく運びにくく、保存がきかない。
そこで更に土器に詰めて熱を加える。
苦汁分が変成して固まりになる。再加熱した塩を「焼塩」と呼び、これが「堅塩」のことと考えられます。

伊勢神宮の御塩殿神社(みしおでん)では神事に用いられる御塩を精製するために 毎年8月に一昼夜かけて煮詰めた荒塩を、10月に三角錐の土器に入れて再加熱し「堅塩」にしています。



▲伊勢神宮の御塩殿神社で使用する「堅塩」生産用の容器

また山間地で若干製塩土器が発掘されるのも、容器に入れたまま堅塩が山間地の消費地まで運搬されたためであると考えられている。

愛知県の製塩でこのような後加工がされていたのかどうか不明です。

その後の愛知県の製塩

生道(生路)で造られた生道塩は有名なブランドで都へ納められたこと、東寺の供物にあてられたことが記されています。
平安時代に書かれた「延喜式」という書物には「生道塩とは堅塩なり」との記述があります。
生道とは知多半島の付け根東側の東浦町にあります。
しかし、11世紀には愛知県での製塩は衰退してしまいます。

塩田と大型の鉄や土に釜、製塩炉を使って大量生産をした瀬戸内の製塩地帯との商品競争に敗れたためだと思います。

塩田の売買の記録も残っているので完全になくなってしまったわけではないのでしょうが、限定的なものだったのでしょう。

中世
このころの愛知県の東浦での製塩の様子は不明ですが、塩浜を支配する有力者が現れました。
乾坤院文書に、「生道塩浜大炊殿」から塩浜の一部を二貫文で買った記録があります。

江戸時代に復活

愛知県の塩が再び歴史に登場するのは江戸時代の中期です。
入浜式塩田の時代です。

いくつかのブランド塩が登場します。
・生路塩(東浦町)
藻塩、製塩土器時代である平安時代から続く塩の特産地。



江戸中期の生路村絵図(寛政2年:1790)
生路村の海岸はほとんどが塩田になっています。
大きく海にせり出して築かれた「新塩浜」は当時新たに築かれた塩田です。
村の南東におへそのように突き出た矢崎曲輪は「御塩浜」とも呼ばれ、伊久智神社の社伝で塩土翁命が塩づくりを伝えた場所といわれています。

・饗庭塩(あいば−吉良町)
古くから作られていた吉良の塩は、寛正年代(1460〜1466)に饗庭妙鶴丸の開拓した饗庭郷にちなんで「饗庭塩」で知られています。
饗庭塩は、吉良義央公の開拓した富好新田などの塩田で作られ続け、19世紀後半には、4浜約60町歩ほどの塩田がありました。
この饗庭塩は矢作川を船でさかのぼって岡崎へ、そして、塩の道を通って遠く信州まで運ばれていました。

・成岩塩(半田市成岩町)
・前浜塩(名古屋市南区星崎)



しかし愛知県の江戸時代の製塩は瀬戸内海の製塩との競争に負けて、幕末以降も製塩が行われたのは藤江村と三河湾の塩田だけです。

また、昭和47年(1972)にはわずかに残った塩田も姿を消し、愛知県の製塩は完全に消滅してしまいました。

製塩の歴史についてはこちらをごらんください。

参考資料
やしの実博物館展示
知多市歴史民俗博物館
吉良町歴史民俗資料館
塩釜もとまち街歩き 現在不明
蒲刈町HP 現在不明
岩手日報:21世紀への遺産 現在不明
絵で見る考古学 現在不明
たばこと塩の博物館 http://www.jtnet.ad.jp/WWW/JT/Culture/museum/WelcomeJ.html
塩事業センター http://www.shiojigyo.com/index.html
2009年1月12日 清水 健一

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